天の神様、今日も私達をこの教会の礼拝に集めて下さって有難うございます。先ず、教会の子ども達を覚えて祈ります。今日の旧約聖書はコヘレトの言葉からでした。コヘレトの言葉は、王様や大臣の子ども達が勉強した学校の先生が書いたものではないかとも言われています。この人は、「私達の世の中は、不公平なことが多いな」と感じ、その理由を一所懸命勉強して知ろうとし、自分でも考えました。でも、最後まで分らないことが多かったのです。そこで、何でも全部分ろうとするんじゃなくて、分らないことは分らないこととして、心の中に大切にしまっておくこと、それと毎日を一所懸命生きることが大切だと考えたのです。それは、私達にも大事なことです。そんな生き方をさせて下さい。
神様、礼拝に集う、中高生や大人の人達を覚えて祈ります。み心に沿わない生き方を重ねる私達ですが、赦して下さり、感謝します。この礼拝においても、聖霊を豊かに与えられ、み言葉を理解できるようにして下さい。「落ち着いて生きる」ことの大切さを、み言葉から知ることが出来ますように。このお祈りを、イエス様のお名前によってお献げ致します。アーメン
テサロニケの信徒への手紙Ⅱ3章12節「落ち着いて働きなさい」要旨
今日の新約聖書のみ言葉、テサロニケの信徒への手紙Ⅱは、謎の多い書物です。手紙のⅠは、パウロが書いたものとされ、Ⅱもそう信じられて来たのですが、それを疑う学者が次第に多くなり、パウロは著者ではないとする意見が強くなって来ましたが、しかし決定的なものなく、誰が書いたか分りません。ここでは一応、著者はパウロとしておきます。
Ⅱの手紙が書かれた状況は、Ⅰとは少し異なっていました。「主の再臨」について特別な思いを持つ人々が教会内に増え、無視出来ない状況になったのです。再臨について考えることは大切ですが、この人々は行き過ぎました。他のことが手につかなくなったのです。
私達も、何事かに気を取られてしまうことがあります。考えても仕方がないことに縛られてしまうこともあるでしょう。そんな時、そのことについては神にお任せするというのは大切なことです。拘りから解き放たれるからです。
テサロニケの「主の再臨拘り派」は、それが出来ませんでした。この再臨のことばかり考えて、他のことが出来なくなったのです。そればかりか、そうしない人々を批判したり、無理やり自分たちと同じことをさせようとしたことにより、混乱が生まれました。またその人々は「主の再臨」に拘ってそればかり考える人々ですから、働かず、結果として怠惰な生活になったのです。働くのが嫌なのではなくて、自分の拘りによって働けなくなったのですから、少し厄介ですね。
3章6節でパウロは「わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。」と命じていますが、無視するといったことではなく、その人と距離を置きなさい、ということです。その人達には今は何を言っても受け止められないのだから(つまり凝り固まってしまっているから)、距離を置いて、暫く祈って、時を待ちなさいということです。これは、今を生きる私達にとっても、人間関係を考える時、有益な勧めです。相手の状況を冷静に見極めて、適切な対応を取ることの一つが、距離を置くことです。いつもそばにいようとすることは、時として残念な結末を迎えることもあるのです。
そして今日のみ言葉です。「そのような者たちに、わたしたちは主イエスに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」ここでの「わたしたち」はパウロ、シルワノ、テモテです。単独で行動するイメージがあるパウロですが、仲間との協力を大事にする人で、ここでは3人の協議を踏まえて勧めるのですが、「主イエスに結ばれた者」として語っていることに注目しましょう。パウロは主に従うことを大切にした人ですが、彼は同時に、主との固い絆を強く感じた人でした。主に従うことは、自分の力ではなく、主に支えられていることを通して、成し遂げられると信じていたのです。ですからここでも、「主に結ばれた者」として発言していますし、そこには「あなた達もその様に生きて欲しい」という強い願いがあるのです。
そして具体的には、①自分で得たパンを食べる(生きる糧を得るために働け)②落ち着いて仕事をせよ(自分に神から与えられた仕事を、天職と考え、良い働きをするために、何をしなければならないか、冷静に考え、取り組め)ということです。これはルターの有名な言葉「もし、明日主の再臨があるとしても、私は今日、林檎の木を植えるだろう」に通じるものがあると思います。明日のことは誰も分かりません。だから、今日(今)、しなければならないことを、集中して懸命にする。それも明日に続く働きを、今しか出来ないこととして誠実になす。それがもし、明日、主の再臨があるとしても、「忠実な僕よ、良くやった」と評価して戴くことが出来る生き方なのです。何かに心を奪われては、冷静に判断することも出来ず、集中することも出来ません。パウロが、そしてルターが私達に示したこの生き方を、主に祈り求めつつ、ご一緒に励みたいと思います。祈りましょう。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。落ち着いて、今何をなすべきかを冷静に判断し、それに集中することの出来る生き方を、私達に下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。