<こどもの教会のための祈り(小説教)>エゼキエル書37章22-23節
先生ね、もっと大人の人達は、勿論先生も含めてなんだけど、もっと子どもの真似をしなくちゃいけないなって思うことがあるんだ。例えばみんなは、喧嘩や悪いことをした時、直ぐに「ごめんなさい」って言えるよね。大人はそれが駄目なんだよ。自分が悪いんじゃない、相手がいけないんだって言い続けることが多い。今日の旧約聖書はエゼキエル書だったけど、その中に「わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。」って書いてあった。彼らって旧約聖書に出て来るユダヤ人のこと。ユダヤ人達は昔喧嘩をして、二つの国に別れちゃったんだ。みんなで仲良くして助け合わなければいけなかったのに、それが出来なくて、相手が悪いんだって言い続けちゃったの。いけないね。
それも原因の一つなんだけど、やがて二つの国はそれぞれ強い国に滅ぼされて、南側に国を造っていた人達は、バビロニアっていうところに連れて行かれて辛い目にあった。エゼキエルって人はバビロニアにいたユダヤ人の一人で、神様の言葉を伝える預言者だった。
そのエゼキエルに神様は、「私はやがてイスラエルの民を一つにする。一人の王様を与える」って言われた。ここで言われたイスラエルの民は、神様を信じる人達って意味でね、ユダヤ人だけじゃなくて、世界中の人達のことだって先生は考えているんだ。みんなを一つにしてくれる王様はイエス様のことだね。私達が一所懸命イエス様を信じてついて行こうとすると、神様が私達を一つにして下さるんだね。お祈りします。
コリントの信徒への手紙Ⅰ1章17節「言葉の知恵によらず」要旨
今日私達に与えられた、説教のためのみ言葉はこう語ります。「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」
この箇所は一見すると、パウロが洗礼を軽んじているように感じられます。しかしそうではなく、コリントの教会の問題性を踏まえての指摘なのです。それは、この教会の指導者達が気づかずに抱えていた「自分中心主義」でした。この人々の思いの中心は、「自分がどう感じるか」ということです。キリストの福音を聞いて、自分が感動した、納得したから洗礼を受けたのであり、自分を感動させる、納得させる説教でなければ認めない、が基本でした。ですから、誰の、どんな説教で導かれたから問題であり、自分達で説教者の好き嫌いを決めていました。ですから教会の中に、パウロ派、アポロ派、ケファ(ペトロ)派、キリスト派というグループが生まれたのです。キリスト派というのも、おそらく「キリストに関して、この様な話が好きだ。それ以外は嫌だ」という人々でしょう。
ですからパウロはこの教会に対し、「説教者を自分の基準で選好みしてはいけない。教会においては、キリストの従う私達となるために、多様にキリストが語られるのであり、どの説教も大切だ。豊かにキリストの示す道が示されるからだ。伝道者としての価値は、誰に、何人洗礼を授けたかで決まるのではない。私は説教者として、キリストの福音にどう向き合って来たのか、それに従うために、どのように自分の思いと戦って生きて来たかを、語ることを大切にして来たのだ。」と主張したのです。
そして福音を語る際には、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせた」と述べています。この17節の原文では、最初に「キリストは私を、洗礼を授けるために派遣したのではなく、福音を宣べ伝えるために派遣した」と語ったのに続けて、「言葉の知恵によって(語るの)ではなく、キリストの十字架が持つ、救いの力を空っぽなものに(無力なものに)しないために(語ったのだ。)」と続けています。これはパウロの宣教の姿勢を良く示すものです。
彼はコリントの教会が、自分の好みで説教者やその説教をランク付けし、「このような説教は聞きたくない」と考えたことを良く知っていたのです。彼もギリシャ文化に育った人間として、そしてファリサイ派の訓練を受けた者として、雄弁に語る術は身に着けていたでしょう。しかし特にコリントでは、キリストの福音と如何に出会い、それが自分の人生にどのように働いて来たのか、そして従うためになした、神の助けの中での努力を、綺麗な言葉や美しい言い回しではなく、魂から出た証しとして語ったのです。それが「言葉の知恵によらないで」ということです。パウロは生前の主イエスを知りません。そして当時の教会には、簡素な主の語録集の様なものがあるだけでした。それを何度も読みながら、先輩信徒の説教を必死で聞き、福音を理解し、それに従おうと祈り、努力を重ねたのです。ですから彼にとっては、どの説教者の言葉も大切な、自分に語られるべき言葉でした。その理解と努力の中に、パウロの信仰者としての偉大さ、豊かさがありました。
コリントの教会の指導者は、結局キリストに従うよりも自分が特別な人間になることを望んでいたのです。自分が聞きたい、受け入れたいものしか受け入れない生き方は、最終的には自分を神とすることです。自分が全ての判断基準になるからです。そして、そこでなされた生き方は、教会を間違った歩みに導いたのです。それが「十字架の救いの力を空っぽにした」のです。パウロはそれと戦いました。私達もパウロと共に、「キリストの十字架を空しくする」ものと戦う信仰者になることを願い、キリストに従う生き方を、ご一緒に祈り求めたいと願います。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。今日もみ言葉を通して、コリントの教会の指導者は、キリストに従うより自分が特別な人間になることを望み、教会を間違った歩みに導いたことを覚えました。私達も同じ過ちを犯さぬよう、パウロに倣いキリストの従い、「キリストの十字架を空しくする」ものと戦う信仰者になることが出来るよう導いて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。