<こどもの教会のための祈り(小説教)>エレミヤ書20章7-9節
今日の旧約聖書はエレミヤ書だった。エレミヤも預言者だった。エレミヤが若い時に神様が「君を預言者に選んだよ」って言ったんだよ。エレミヤはびっくりしてね、「エーッ、僕がですか?そんな大事なこと無理ですよ」って断ったんだけど、神様は「駄目だよ、私が選んだんだからね」って、許して下さらなかった。それから、長い間、エレミヤは預言者として働くんだけど、辛いことばかりでね、嫌になっちゃったんだ。エレミヤは預言者だから、神様から預かった言葉をちゃんと皆に伝えなくちゃいけない。言いたくない言葉もあったろうし、聞く人にとっては、聞きたくない言葉もあったからね、神様からの言葉を伝えたばかりに、いじめられたりしたんだ。「神様、もう嫌です。出来ません!」って何度もお祈りしたけど、許して下さらなかった。でもね、エレミヤの偉いところは、逃げだしたりしなかったこと。神様からのお言葉を、ちゃんと間違いなく伝えたこと。だから、それを聞いていた人たちの中で、数は少なかったけど、「大事な言葉だ」って感じて、エレミヤの言葉を書き残した人達がいたんだ。だから聖書にも「エレミヤ書」がまとめられて、今でも、僕達が読むことが出来るんだね。神様がしなさいって仰ることは、必ず大切なことだから、エレミヤみたいに、逃げ出さないで、それをしようとすることが、大事なんだ。お祈りします。
使徒言行録9章26-28節 説教「決められた道を走る」要旨
今日の使徒言行録のみ言葉は、「エフェソの長老たちに別れを告げる」と小見出しが付けられている部分の一部です。現在のスペインへの伝道への援助を求めるために、ローマに赴こうとしたパウロが、その前にエルサレム教会に承認を得ようと、危険を冒してエルサレムに向かいます。その前に、自らの覚悟を愛するエフェソの教会の指導者達に告げたのが、今日の箇所です。ここで彼は、「自分の決められた道を、私は走り通したい」と語るのですが、それがどの様な意味であったのかを、ご一緒に考えたいと思っています。
パウロにとって、「自分の決められた道」とは、神によって与えられた人生の使命に生きる、ということでした。私達は、神によってこの世に生を受けたのだから、命の与え手である神のこの世界に対するご計画に用いられるための、大切な使命が与えられるというのが、彼の基本的な考えです。それを少し具体化すると、主イエスの言葉を借りれば「自分の十字架を担う」ということになります。
皆さんも良く御存じの様に、福音書を読めば、主イエスが担われた十字架は、本当に苛酷なものでした。ですから「自分の十字架を担え」と主が私達に求められるものは、簡単に出来るものではありません。これは「私という人間が、どうしても果たさなければならない務め」です。それは神が私達一人一人に与えて下さるもので、一人一人その内容は違います。神が一人一人に相応しい「自分の十字架」を下さるからです。そして私達が自分の人生を振り返ってみると、子ども時代、青春時代、そして壮年期という一つ一つの時期に、それぞれどうしても担わなければならなかった課題が与えられ、それを神の助けの中で担う時に、内面的な成長・成熟が与えられて来たということも分かります。ですから「自分の十字架」は、神のこの世界に対するご計画のために与えられるだけでなく、私達一人一人の人生を豊かにするためのものでもあるのです。
パウロにとってそれは、伝道者として生きる、ということでした。19節の「涙を流しながら」、「この身にふりかかってきた試練に遭いながらも」という言葉が、この十字架も彼にとって過酷なものであったことが分ります。そして20節から21節においては、パウロがこの課題に対して、決して逃げず、聖霊の支えの中で、ベストを尽くしてきたことが示されます。今、「聖霊の支えの中で」と申し上げましたが、パウロは自分の体験から、神と主イエスと聖霊の働きの違いを、明確にして来たのだと思います。
パウロにとって父なる神は、彼に命を与え、生きる意味を与える存在です。そしてその生き方を、「自分の十字架を担え」という在り方で示して下さったのが主イエスでした。彼にとって主イエスは、自己判断で人生を乗り切ろうとしたことから来る過ちから、彼を180度転換させるために介入して下さった救い主であり、その生き方から生まれる罪を、自らの十字架によって赦しと贖いを与えて下さる真の主人でした。そしてパウロが、主の弟子として自分の十字架を担って生きようと決意した時、伝道者の道に導き、エルサレムへ行けと示し、23節に記されているように、エルサレムで経験する新たな苦しみを、具体的に示して下さるのが聖霊なのです。こうして神の僕として生きようと決意する者の歩みを、三位一体の神が、一つ一つ課題を具体化して下さることを、体験して行ったのです。
彼は22節で「“霊”に促されてエルサレムに行きます。」と語っていますが、ここは「“霊”に縛られて」と訳すことも出来る言葉です。そして23節の「投獄と苦難がわたしを待ち受けている」と訳されている「投獄」という言葉と、今申し上げた「縛られて」という言葉とは、非常に関連のある言葉だと言われています。ですからある学者は、「パウロは聖霊に縛られるように(神的な強制)エルサレムに向かい、聖霊の導きの中で、権力者の手によって縛られた(捕縛された)のだ」と語っているのです。それ故にこそ、これらの事柄が神の働きに中にあるのなら、その支えの中で、必ず御心に適う歩みへと導かれて行くとの確信が、与えられていったのです。
私達にも、逃げられない務め、歓迎しないものだけれど、担わなければならない務めがあるはずです。パウロはそれを、神から与えられたものと捉えました。それ故に、聖霊の具体的な助けによって、それは人との出会いであったり、苦しみの中に与えられる、希望を失わせないための小さな幸せであったりいろいろですが、その助けの中で私達は、自分の十字架を担い切り、新しい自分へ、新しい生き方へ導かれて行くことを、パウロの歩みから知ることが出来ます。私達も、自分の十字架を担い切るために、神の助けの中で勇気を出して生きたいと願うものです。祈りましょう。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。パウロは命懸けで、あなたから示された彼の大切な使命に取り組んだことを、今日は覚えました。それは「自分の十字架を担う」ということに繋がることだ、ということも知りました。そして私達にも、それぞれにあなたから示された使命が確かに与えられていることに、おののきを覚える私達ではありますが、しかしパウロの様に、祈りつつ、それに取り組む私達となることが出来る様、あなたの導きを祈り求めます。この祈り、主のみ名によって祈ります。アーメン