<こどもの教会のための祈り(小説教)>ホセア書6章6節
今日の旧約聖書はホセア書だった。ホセアっていうのは人の名前。預言者っていってね、神様からみ言葉を預かって、それを皆に伝える役目の人。伝言ゲームって知ってる?バスで遠足に行ったりする時よくするんだけど、一番前の人が次の人に、言葉を伝えてね、それを次々に伝えていくゲームなんだ。だいたい途中で誰かが間違えて、伝える言葉を変えちゃうから、言葉がどんどん変わっていくのが面白いんだ。でも、預言者はそれじゃ困るね、神様から伝えられた言葉をちゃんと伝えないと、変なことになっちゃうからね。今日のみ言葉は、「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」っていうものだった。教会に来て礼拝することは大事なことだけど、それは神様が、私達に何を望んでおられるかを知ることであって、そのために努力しなけりゃ礼拝する意味は無いよ、ってことなんだ。神様が一番大事にされるのは愛。神様や人を本当に大事にすることなんだね。お祈りします。
コリントの信徒への手紙Ⅱ5章16-18節 説教「キリストに結ばれて生きる」要旨
今日はご一緒に、「キリストと結ばれて生きる」人生について考えたいと願っているのですが、そのために、今日のみ言葉の少し前の、15節に注目したいと思います。こう書かれています。「その一人の方(キリストのことです)はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
私達は罪人です。神から戴いた生きる力や能力を用いて、いがみ合い、批判し合い、傷つけ合って生きています。そしてこの世的な価値観を捨てきれず、学歴だ、家柄だ、生まれがどこだ、社会的地位が高いか低いかということで人を差別したり、優越感に浸ったりする、つまらない生き方を積み重ねてきた人間です。
その様な私達を憐れんで、キリストは全ての人を罪の束縛から解放し、新しい生き方に導くために、十字架に掛って下さいました。全ての人のために死んで下さったのです。でも、赦されただけではまた間違った方向に生きてしまう私達のために、復活して永遠の救い主として共に生き、導きを与え、育てて下さる救いを下さいました。だから私達は、その恵みに感謝して、キリストの導きを受け入れ、その僕として、キリストに仕えて生きて行くべきなのです。
そこでパウロは、「今後は、肉に従ってキリストを知るのではなく、キリストに結ばれて、キリストを知ろう」と願ったのです。「肉に従ってキリストを知る」とは、社会的評価や損得勘定でキリスト者となる、ということです。幸い、今の日本ではクリスチャンになっても大した得はありませんが、それでも、「私は○○教会の会員です。高名な××先生に洗礼を授かりました」等と誇りの塊が目の前に立っているのではないか、と感じさせる方にお会いすることがあります。ある面とても無邪気で微笑ましいのですが、この様なタイプは「肉に従ってキリストを知った」典型例のようなものでしょう。
パウロは、肉によってではなく、キリストと結ばれてキリストを知る生き方を自分はしたい、それが、私の新しい生き方だ、と語りました。「キリストと結ばれて」とは、「キリストに支配されて、キリストに包まれて」という意味です。自分中心の思いで、自分勝手にキリストはどんな方かと考えるのではなく、キリストに支配されて、キリストの思いに包まれて、キリストが今、私に何をせよと考えておられるかを知り、それによって、キリストの思いによって自分の生き方を決めて行きたいのだ、とパウロは語るのです。
この手紙の読者であるコリントの教会の、特にリーダーの人々は、肉の思いによって、人間を値踏みしていました。「パウロ先生は風采が上がらない人だ。その面ではアポロ先生が上だ。だからアポロ先生の説教の方が、聞く気が湧いて来るね。」というように。パウロもかつては、肉の思いを最優先に、人生を生きて来た人です。だからこそ、ファリサイ派の宗教者として、名声や評価を求めて、キリスト者の迫害に専念していたのです。でもそれは、パウロにとって無理な生き方でした。主イエスはそれを、パウロ以上に良く知っておられたのです。だからこそ、最もパウロを生き生きとさせる、キリストの僕として生きる道に、引き摺り込むように導かれたのです。自分の生き方に無理があることを、パウロは薄々知っていたかも知れません。でもそれを止められないのが人間です。解ってはいても、破滅に向かって突き進んでしまう、彼もそんな生き方の中にありました。
そんなパウロを深く憐れみ、パウロの突進を力ずくで止め、新しい生き方に導かれた主。それが主の愛と言うものです。その愛がコリントの人々だけでなく、私達も含めた、全ての人達のために与えられていることを、パウロは確信していました。私達もパウロと同じ信仰を与えられました。そして、パウロと同じキリストを主と告白する洗礼を受け、パウロと同じキリストに結びつけられ、神の民として新しい人生を与えられた今を、私達は生きているのです。パウロに倣い、キリストの僕としてキリストに従い、キリストと共にそのみ心を生きる人生を、ご一緒に、祈りつつ歩みたいと願っています。祈りましょう。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。私達はあなたに信仰を与えられ、洗礼を受けることを許され、主と結びつけられ、新しい人生を生きる道が与えられました。感謝致します。弱い、罪深い私達ですが、主に従い、主のために生きる人生を、どうぞ私達に与えて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン