<こどもの教会のための祈り(小説教)>エレミヤ書10章1-4節
今日の旧約聖書では、エレミヤって人が、神様からお言葉を戴いて、それをみんなに伝えたことが書かれていたんだ。エレミヤはね、今日のところでは、ひと言で言っちゃうと「偽物の神様に注意しなさい」て言ったんだよ。「オレオレ詐欺」とか「振り込め詐欺」とかいう言葉知ってる?子どもや孫になりすました悪い人が、お家に電話をかけて来てね、ワーワー泣いて見せたり、「風邪をひいて声が代わった」なんて嘘をついて、「困ったことになっちゃったからお金を貸してよ。銀行で下して渡して」なんて言って、たくさんのおじいさんやおばあさんを騙してるんだよ。これは「偽物の家族」だね。
エレミヤが言ったのは、「偽物の神様」。神様にも偽物があるんだ。本当の神様は、なんでも出来るでしょう?そこのところを間違えちゃって、「これさえあれば何でも出来る」と思い込んで、例えばお金がこの世で一番大事、なんて考えちゃう人は、お金を神様にしている人なんだ。でも、お金は神様じゃないよね。大事な物だけど、一番大事な物じゃない。お金をどんなに使ったって、病気から身体を守ることは出来ないよね。でも、病気になっても、神様を信じていれば、希望や病気を治そうって思う心を戴けるんだ。聖書のお話をしっかり分かって行けば、偽物の神様には引っかからないよ。それが大事なことだね。お祈りします。
ルカによる福音書24章48-52節 説教「讃美・献身・派遣」要旨
今日は、昇天後主日です。十字架と復活と昇天という一連の出来事によって、神は私達に何を示して下さったのかと言うことを、御言葉を通して考えたいと思います。そして、この御言葉は今年の活動目標とも関わるものです。それについても考えましょう。
今日の御言葉は、24章13節以下の物語と深く結びついています。そしてそこに示されるのは、人間の罪深さ、神の働きを感じることへの鈍さです。先ず13節から35節では、エルサレムを逃げ出した2人の弟子が、復活の主に出会いますが、分りません。「全ては終わった」と思い込んでいるからです。その彼らが主を認識するのは、31節で主が賛美の祈りの後にパンを裂いて渡して下さる時です。聖書は「すると、二人の目が開け、イエスだと分った」と記します。それがなければ気づけない弟子達だったということです。
36節から48節の物語では、エルサレムへ急いで戻った弟子も一緒に、復活の主の出現を語っている時、その真ん中に主が立たれます。弟子達は全員、亡霊を見ていると恐れます。その弟子達が復活の主を受け入れるのは、45節でイエスが「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」時です。ここでも、それがなければ分らないのです。
死というのは、本当に重い出来事です。死がその人に訪れる前には、例え意識も言葉も無くても、その人が生きているという存在感を、私達は受け取ることが出来ますが、死が訪れるや否や、そこにはまさに「亡骸」存在しているだけになります。
その死の圧倒的力に支配されて、弟子達は主イエスの復活を受け入れることが出来ません。彼らの心の中にあったのは、悲しみと、怒りと、後悔や無力感等の、ネガティヴな感情の洪水です。そんな思いに支配されている人間には、神の存在や働きは認識出来ません。私達にも、そんな感情に支配された時があるでしょう。そんな時、神への賛美や感謝が出来ますか?口先でそれをすることは出来るでしょう。でも、直ぐ、それとは裏腹の行動に走ってしまう。それが罪に支配された時の、私達の現実です。
その時、そんな私達をどこまでも愛して下さる主は、「あなたを罪の支配から助け出すために、私は復活したのだ」と言わんばかりに、私達の心の目を開いて下さる、新しい視点や理解を、心の中に吹きこんで下さり、私達の心を、燃やして下さいます。
13節から49節までを読むと、主イエスが、本当に丁寧に、愛をもって、分かりが悪く、心が鈍く、恐れの中で身体を強張らせている弟子達の心を開き、神の福音全体を解き明かして下さっているのが分ります。その主の愛が、弟子達の心に生きる力と希望を回復させ、喜びで心が燃え上がる体験をさせたと言えるでしょう。
そしてイエスは、彼らをベタニア付近に伴い、祝福しながら天に上げられて行かれました。弟子達はその主を見て、「主は私達を祝福し続けるために天におられる」と思ったことでしょう。ですから、応答として礼拝を献げます。そして大喜びで、彼らにとっては危険な、敵対者の本拠地であるエルサレムに帰り、神殿に出向きます。主イエスが十字架の上に息絶えられた時、神殿の一番奥には祭司以外立ち入り禁止の象徴として、垂れ幕がありました。神に仕える祭司以外は、その奥には入れなかったのです。その垂れ幕が真ん中から裂けました。主の十字架によって、神と人とを隔てるものはもう不要になったことを象徴するかのようです。その神殿で彼らは神への賛美を続けました。それが、主イエスの救いの出来事の証人として、献身する準備でした。
彼らがエルサレムの戻ったのは、「都に留まれ」との主の派遣があったからです。「讃美し、献身し、派遣された場所に、証人として生きる」ことが、彼らが教会をつくるための基礎でした。主の贖いと救いの力を受け入れ、それに支えられて生きることが、教会の基礎をつくることだったのです。教会に連なる者の一人として、弟子達の喜びと働きを受け継ぐ私達となることが出来るよう、主にそれを求め続ける、私達となりたいと思います。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。十字架・復活・昇天の一連の出来事を経て、主の贖いの中で新しい命に生きる弟子達に、あなたは主イエスを通し、宣教の使命を与えられました。弟子達は、主イエスが共に生きて下さる喜びの中で、讃美し、献身し、派遣され、その使命に生き、教会を生み出したことを、改めて知りました。教会に連なる者の一人として、弟子達の喜びと働きを受け継ぐ私達となることが出来るよう、どうぞあなたが私達を育てて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン