<こどもの教会のための祈り(小説教)>エズキエル書36章25-26節
「石頭」って言葉、聞いたことある?石みたいに固い頭のことだよ。先生も昔、小っちゃい頃ね、夢中になって遊んでいて、お友達とぶつかったりした時に、「スゲー石頭!」なんて言われたことあるんだ。だけど、ホントに頭が固いんじゃなくて、自分の考えを変えられない人なんかが、「あの人石頭だよ」なんて言われたりするの知ってるかな。
でもね、聖書では、頭より心の方が問題だっていうんだ。今日のエゼキエル書でも「お前たちの身体から、石の心を取り除き」って書いてある。僕たちは頭で考えていろいろなことをするけど、頭に考えさせるのは心だからね。楽しい思いが心にいっぱいの時には、楽しいこと考えるよね。でも心がカチンカチンだと、神様のお心が入って行かない。だから「神様、僕の心をいつも柔らかにして下さい」って祈っていないと、悪口やいじわるばかりを生み出しちゃうんだな。でも、「柔らかな心にして下さい」って祈っていると、イエス様は助けて下さるんだよ。今も生きて僕たちを助けて下さる方だからね。お祈りします。
聖書によれば、主イエスが十字架上で死なれたのは金曜日の午後。日没が近づいていました。ユダヤでは土曜日(安息日)は、金曜日の日没から。この日は、神を礼拝することに集中する日。労働は禁止です。遺体を墓に納めることは、労働ですから、主の弟子だったアリマタヤのヨセフと、最後まで主に従った女性達は、大急ぎで主を墓に納めました。
そして安息日が土曜日の日没をもって終わり、明けて日曜日の早朝、二人のマリア(主の弟子)が墓に急ぎます。女性の弟子達の代表だったのかも知れません。祭司長とファリサイ派の代表は、総督ピラトに兵士の出動を要請します。主の弟子が亡骸を盗み出し、「ナザレのイエスは復活した」と言いふらすと言うのです。ピラトがそれを拒絶したことから、神殿の警備に当たっていた者達(この人達もローマ兵同様屈強です)が主の墓の周りに立ちました。物々しい雰囲気です。そこに女性とは言え、十名内外の弟子達が集まったら、騒ぎになるかも知れません。そこでこの二人が出向いたのでしょう。
すると大きな地震が起こり、主の天使が天から降り、大きな墓石を脇に転がし、上に座ります。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったと聖書は記しますが、屈強な番兵達が恐ろしさのあまり震え上がったというのですから、非常に緊迫した、厳しい状況が出現したことを教えます。二人のマリアも、恐怖で身を固くし、青ざめていたことでしょう。その彼女達に天使は語り掛けます。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、ここにはおられない。復活なさったのだ。急いで行って、他の弟子達のこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる』確かに、あなたがたに伝えました。(「御覧なさい、これがあなたがたへのメッセージです。」との意味でしょう。)」そうすると、彼女たちは恐れの中にありながらも我に返り、他の弟子達に知らせるために走り出すのです。
屈強の男達が逃げ出す程の恐怖の中で、どうして彼女達は、自分を取り戻すことが出来たのでしょう。私はそれを、主が準備して下さったからだと考えます。天使は言いました。「あの方はここにはおられない。かねて言われたとおり、復活なさったのだ」と。ここを私なりに訳すと、「彼はここにはおられない。何故なら、まさに以前、彼が告げた様に復活されたからだ。」となります。主が以前、あなたがたに、「私は十字架で死んで復活する」と告げたことが、今、現実のものとなったと、天使は告げたのです。マタイは、繰り返し主が、エルサレムで引き渡され、苦しめられ、十字架で死に、そして復活すると弟子達に語ったことを告げます。その言葉が、彼女たちの胸に、この時鮮やかに甦ったのでしょう。
私達も、以前誰かに言われ、心には残ったものの、あまり深く理解できなかった言葉が、ある経験の中で鮮やかに甦り、伝えられた言葉の意味を深く理解する、ということがあります。それを聞いた時には未熟で、不充分にしか理解できなかったことを、時間を経て、深く心に受け止めることが出来たという経験です。彼女達も主の弟子、最後まで付き従った弟子でした。でも、十字架の上で苦しみながら死んで行かれた主を見上げながら、どうすることも出来ない弱さを痛感したことでしょう。だからこそ、「主が以前、あなたがたに告げたことが、今、現実のものとなった」と天使に告げられた時、「ああ主は、私たちのために死に、復活されたのだ」と深く受け止めることが出来たのです。心の中に宿っていた主の御言葉が、自分の思いで硬くなりがちな彼女達の心を、柔らかなものにして下さっていたのです。それに対して、番兵達の心は硬いままでした。頑なに、自分達の思いばかりを優先し、他の物を受け入れない強張った心しか持つことが出来なかったのです。
主はその様にして、愛する者達が、人生を正しく歩むことが出来るように、適切な備えを成して下さるお方です。その方が、永遠の救い主として、今も生きて働いて下さるのです。それに感謝しつつ、このイースターを、喜びをもって迎えたいと願うものです。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。屈強な番兵達も震え上がったのが主の復活という出来事でした。しかし居合わせた婦人達は、恐れながらも喜びを感じ、走り出します。彼女たちが以前に、主のお言葉を聞いていたことが、主の復活を受け入れる良き準備となったことを覚えます。その事実は、主が常に弱い私達に十分な準備を与えて下さることを、私達に教えます。感謝です。どうか私達が、弱いながらも懸命に、あなたに従うことが出来ます様に育てて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン