天の神様、今日も私達をこの教会の礼拝に集めて下さって有難うございます。先ず、教会の子ども達を覚えて祈ります。今日の旧約聖書は十戒でした。「あなたがたは、本物の神様に従いなさい」と教えます。それだけ、偽物の神様や神様でない者を神様としてしまう人間が、私達の中では多いのです。あなたは本物の神様です。あなたが本物の神様だと言うことを、いつもちゃんと分かる私達にして下さい。
神様、礼拝に集う、中高生や大人の人達を覚えて祈ります。み心に沿わない生き方を重ねる私達ですが、赦して下さり、礼拝に招いて下さったことを感謝します。そしてこの礼拝において、私達に御言葉を下さい。あなたの聖霊の働きによって、語る者も聞く者も、み言葉に生きる一人一人になることが出来ます様に。
今日は敬老祝福式礼拝でもあります。この教会の高齢者の方々の毎日を、これからもどうぞ豊かに祝福して下さい。このお祈りを、イエス様のお名前によってお献げ致します。アーメン
マタイによる福音書19章13-15節「このような者になるために-讃えつつ、力を尽くす信仰」要旨
今日の新約聖書のみ言葉、マタイ福音書19章13-15節は、福音書を記していった教会が、特に大切にした物語の一つです。そして、特に近代に入ってからの教会は、この物語から、「子どもの無垢な信仰を学ぶ」という理解を深めて来ました。しかし、この40年位の聖書学の進展の中で、それは主イエスが元来、意図されたものではないと考えられる様になりました。イエス様の時代の人々は、「人間は生まれながらの罪人である」という理解に立ち、子どもも罪人の一人であり、罪に対しての理解も不足している、未熟な存在だと、考えられていたということが分ってきたからです。そして主イエスも、全く同じではなかったにせよ、人々の思いを受け止めながら、「子どもたちを、わたしのところに来るのを妨げてはならない」と語られたのだと考えられる様になったのです。
物語に入りましょう。主イエスに祈って戴きたいと、人々(子どもたちの親か、親しい大人達でしょう)が子ども達を連れて来ました。弟子達はこの人々を叱るのです。「私達の先生はお忙しいのだ。そんな仕事をする暇はない」と言うのです。しかし主は言われます。「子ども達を来させなさい。妨げてはならない。天の国はこのような者達のものである。」
この言葉には、みんなが驚いたことでしょう。こんな未熟な、信仰のことなど何一つ分らない子ども達に、天の国(神の救い)が約束されているなんて!神の救いは、律法を守り、清く正しく生きる人々に、報酬として与えられるもの、というのが当時の常識でした。
神の救いが約束されている「このような者」とは、どの様な者なのでしょう。ある聖書学者は、それは16‐22節の物語の中に、ヒントがあると語っています。ここに金持ちの青年が登場するのです。親や親族からそれを受け継いだのか、自分自身の働きでそうなったのかは分りませんが、この時はおそらく、働く必要などなかったのでしょう。神について、救いについて学ぶことに集中し、自信も持っていました。「永遠の命を得るには、どんな良いことをすれば良いのですか?」という問いは、今のあなたは満点だとの答えを期待してのものなのです。その彼に主イエスは言われるのです。「あなたの持ち物を売り払い、貧しい人の施し、天に宝を積め」と。彼にそれは不可能でした。彼の「正しく清い生活」を維持するために、働かない豊かな生活が必要だったからです。彼は大事なことを忘れていました。もし、彼が自分の才覚で富を得たのだとしても、その知恵や能力を与えたのは神です。それを忘れていました。彼の富は、神が与えた物です。彼が与えられたものに感謝して生きていたなら、もっと違う生き方になったはずだと思うのです。
それに対して幼い子ども達は、「無力な者」そのものとして生きています。お腹が空いたと言っては泣き、眠いと言っては泣く。そうすれば、大事な、大好きな、信頼する両親を始め周りの大人たちが、必要なものを与えてくれる、それに100パーセント信頼しているから泣くのです。幼い子ども達は、言ってみれば身勝手です。両親や周りの大人の都合など、何も配慮しません。その意味では罪人でしょう。しかしそれは、自分が出来ないからなのですが、周りの大人達を、信頼することを生きる力として、一人では生きられない「無力な者」として生きているのです。
「あなた達が、自分の力や努力で、今の生活を築いていると考えている思い上がりを捨て、神に生かされ、助けられて生きている、『無力な人間』であることを認めなさい。あなたの生きる力や能力は、全て神から与えられたものであることを認め、神に感謝し賛美して、与えられたものを神に献げ、御心に適う生き方を、力を尽くして励みなさい。自分には何が相応しいとか考えず、神に支えられつつ歩みなさい。それが、天の国へ続く道なのだ。」「無力な者」として、そして神に支えられている者として、感謝と共に精いっぱいの神へと賛美と、力を尽くしてみ心を求める努力を、続ける私達でありたいと思います。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。私達が、「無力な者」として、主に信頼して生きる、主が与えて下さるものの素晴らしさを深く知る信仰者として、あなたの愛の中で育てて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。