マタイによる福音書 13章51-52節 「『天の国』のたとえ」
今日のみ言葉は、マタイによる福音書の13章の結びになります。このマタイ福音書13章には、様々なたとえが出てきます。通常、たとえというのは話を分かりやすくするために用います。その点、イエス・キリストはたとえ話の名人でした。当時の人々に身近な事柄を用いながら、ぴたっと来るたとえで話をしました。また、この章の11節には、たとえを用いる理由として、弟子たちが「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と尋ねた時、イエスが「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」と記述されています。
マタイ福音書13章には、「天の国」に関するたとえ話が数多く出てきますが、本日の聖書箇所に繋がる直前には、3つの「天の国」のたとえが述べられています。1つ目は、天の国とは「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」というものです。当時のユダヤでは自分の財産を守るために、それを土の中に隠しておく習慣があったようです。ところが、持ち主が突然死んでしまったような場合、それが誰にも知られないままになってしまうことがありました。誰の物か分からない財産はその土地の所有者の物になるので、その宝を見つけて土地を買った人は、とても喜んだという訳です。
2つ目のたとえは、天の国とは「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」というものですが、商人が見つけたものはたった一つの真珠でした。真珠は今も高価な物ですが、聖書の時代にも宝石と同様に貴重なもので、最高の価値を持ったものの代名詞でもありました。天の国とは、この宝や高価な真珠のように胸が高鳴る気持ち与えてくれる価値のあるものなのです。それは、自分が持っている物をすべて売り払い、それをつぎ込んでも惜しくないと思えるほどのものだといえます。それに、恐らくこの商人は、長い間良い真珠を探していたのです。その努力に報いられた喜びが、この人には増し加えられ、与えられたのだと思います。
この「宝」や「真珠」との出会い方はそれぞれ違いますが、これは私達のイエス・キリストとの出会いにも、通じるものがあるのではないでしょうか。違う目的で教会に通い始めたのに、思いがけなく真理に出会ってしまったり、長い間、努力して真理を求めた結果として教会に出会い、その真理が自分の探し求めていた以上のものであることに気づき、神の福音に心を開いていくようになったりと、キリストとの出会いによって、その後の人生が変えられていくのは、まさにこの「宝」や「真珠」との出会いに重なります。
また「宝」や「真珠」にたとえられる「天の国」は、見つけにくいものでもあります。「天の国」とは神の支配と言い換えることもできますが、その神の支配は畑の土に埋もれていた宝のように、人の目に隠されているのです。この「天の国」とは、ある特定の場所を指しているのではありません。神の支配が及ぶところ、それが「天の国」なのです。私達は今、神を礼拝するためにここに集っています。すなわち、福音が示され、それに従おうとする「神の支配」に入れられつつあるということです。それは、見つけにくいとされる「天の国」を与えられた者であるといえます。よって、宝や高価な真珠の一つを見つけた者というのは、私達のことでもあるのです。しかしそれは、その人が努力して見つけたのではありません。私達が教会に来たきっかけ、洗礼を受けたきっかけというのは各々違いますが、福音を信じるということを与えられた者であることは同じです。この2つのたとえが示すことは、信仰は与えられるものであるということです。
3つ目のたとえは、少しトーンが違います。「天の国」とは「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」と述べられています。何とも厳しいたとえですが、これも「天の国」の一つの側面であるといえます。投げられた網にかかり、集められた魚には、み言葉で言えば「正しい人」と「悪い者ども」であり、その両者が混在しているということです。そして、それは「世の終わりにもそうなる」のです。世の終わり、それはイエスが再び来るという救いの完成の時です。神の国が到来した時には、このような正しい人と悪い者たちがより分けられますが、それは人間の判断ではなく、神の判断によってなされるものだということに、注意したいと思います。
こうして3つの「天の国」のたとえ話をしたあとに、イエス・キリストは弟子たちに向かって「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」と尋ねました。そして、彼らが「分かりました」と答えると、「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と締め括っています。この天の国のことを学んだ学者とは「天の国の秘密を悟ることが許された者(11節)」、つまりイエスの弟子たちのことです。そして、イエスを信じ、従うものとして「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」のです。自分の倉の新しいものとは、イエスから与えられた福音を信じるということです。それは、「宝」や「真珠」といった新たなものを見つけ、これまで自分が持っていた古い物をすべて売り払うことになるキリストとの出会い、そして神の支配、即ち、天の国へと入ることを意味します。天の国とは神の支配であり、イエス・キリストを信じることです。それは、天の国のことを学んだ学者である弟子たちと同様に、私達もまた天の国に生きる一人へとされていくのです。それが、世の終わりに神が選んでくださる良い魚、すなわち「正しい人」として生きていくことに繋がっていきます。それを信じて生きる私達となるために、ともに歩んでいきましょう。