<こどもの教会のための祈り(小説教)>ハバクク書3章17-18節
今日の旧約聖書はハバクク書。ハバククってどんな人だったの?って教会の大人の人達に聞いてごらん?多分ねぇ、殆どの人達は、「知らないなあ、分らないなあ」って答えると思うんだ。教会に長く来ている人でも、「あんまり読んだことないなあ」っていうのがハバクク書なんだ。でもね、「知らないなあ、分らないなあ」っていうのは正解なんだ。一所懸命、旧約聖書のことを調べたり、研究している学者の人達も、「ハバククってどんな人か良く分りません」って言っている位だからね。でもね、これは多分なんだけど、エレミヤって言う預言者と、同じ時代に生きた人らしいって考えられていてね。この時代のユダヤ人の人達は、いろんな国の戦争に巻き込まれて、大変だったんだ。今日のみ言葉にも、「イチジクの木に花は咲かず ぶどうの枝は実をつけず」って書いてあるけど、戦争で国が荒れ果てて、食べるものもなくなって、みんな生きて行くのが大変なことになっちゃったってことが書いてあるんだ。でもハバククは言ったんだよ。「しかし、わたしは主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る。」ガッカリしなくていいんだよ、どんなに大変なことになっても、神様がついていればきっと大丈夫なんだって。それがハバククの希望のもとだったんだね。お祈りします。
マタイによる福音書13章29~30節「天に任せて、問い続ける-毒麦のたとえから学ぶこと」要旨
暫く前になりますが、私達は今年の教会の活動目標について、み言葉から考えました。そこで考えたことは、「私達は、主イエスの福音を、隣人に宣べ伝えていく教会になりたい。そのために、先ず神と言う方を良く知り、心から主を賛美することが必要だ。そして精一杯、神のみ心に適った生き方をするために、主に助けられ、努力する私達になることが必要だ。そして、神の器、道具として、与えられ、遣わされた場所である、私達の社会で、その生き方を続けることが大切だ。その生き方こそ、宣教の業に繋がって行くのだ」ということでした。それは、「讃えつつ、力を尽くし、遣わされ」という今年の活動目標の、前半部分に焦点を当てたものだったのです。
そして今回は、「天に任せて、問い続けよう」という後半部分に焦点を当て、大切なことを考えたいのです。「天に任せて」というのは、神とその働きを信頼して日々生きる、ということですが、「問い続けよう」というのが神に向けて問うということであるならば、この二つは、私達を正反対の方向に向かせてしまうのではないか、という疑問が、皆さんの中で生まれてきても不思議はありません。神を信頼しているなら、疑問など出てこないのではないか、とも考えられるからです。
私は「問い続ける」ということは、神に向かってだと理解しているのですが、神を信頼するということと、神に疑問を持つという矛盾することこそ、私達の現実であるし、大事なことだと考えています。何故なら、私達の生活には、「神様がおられるのに、どうしてこんなことが起こるのか」ということで満ちているからです。それは、この社会全体を見てのことから、私達の生活の中に生まれる、隣人とのトラブルに至るまで、多岐に、広範囲に亘っています。そんな時、教会そのものに不審を抱くこともあるでしょう。その様な時、神に「どうしてこのようなことが」と問わざるを得ないのが私達です。
このことを、今日のみ言葉において主イエスは語っておられます。「農夫が、苦労して畑を耕し、麦の種を蒔いた。順調に育っていたが、夜中に敵が来て、こっそり毒麦の種も蒔いた。麦も毒麦も順調に育ち、毒麦は麦に絡みつき、抜こうとすれば麦も一緒に抜いてしまう状態になった。その時、農夫は雇人達に、『両方とも育つままにせよ。刈り入れに時、麦と毒麦を選り分けて、毒麦は焼き捨てれば良い。』と命じた。」というのです。
このたとえ話では、農夫は主イエス、雇人は天使達、良い麦は神を信じる人々、毒麦の種を蒔いたのは悪魔、毒麦は悪事を行う悪魔の手先となった人々、刈り入れの時は、この世の終わりに始まる、完全な救いの時です。救い主である主イエスは、既にこの世界で働き、神を信じる者達を生み出しておられます。しかしこの世界ではまだ、悪魔も働き、手先になった者達を操り、悪しきことを生み出すのです。聖書学者によりますと、「毒麦」とは本来、何の毒性もない植物だそうですが、そこにカビの様なものが付着することによって毒性を持ち、麦と大変良く似ているために、間違ってその実を砕いて食べると、毒が人間に害を与えるのだそうです。悪魔が人間に取りついて、神を信じる者にも間違った生き方をさせ、毒をまき散らさせるのと良く似ています。毒麦は麦に絡みつくというのも、悪魔が人を操る執念深さに似ています。
農夫(主イエス)は雇人(天使)達に、収穫(この世界が新しい、完全な神の世界に変わる日)まで、「麦と毒麦を共存させよ」と命じるのです。毒麦を処理しようとして、麦も駄目にしてしまう可能性があるから、と言うのがその理由です。無理に悪いものを取り除こうとして、守らなければならないものまで損なってしまうという失敗を、私達は良くするでしょう。特に悪魔の働きによって生み出されたものなら、生き残ろうと必死で絡みつきます。悪魔の力は手強いのです。「だからそれは、今は共存させよう。しかし、神の定める時が来れば、それは必ず消滅して行く。それが神の思い、ご計画だからだ」と告げるのです。
このたとえ話から、神を信じ、主イエスに従い、宣教に励むために、「天に任せて、問い続ける」と言う生き方の大切さを学ぶことが出来るはずです。私達を神は愛し、この世に送り出して下さった。私達の罪を赦し、僕として選び、信仰を与え、神の僕、器として下さった。この感謝すべき喜びの人生の中で、私達が悲しみ、苦しみ、怒りを持たざるをえない出来事が、悪魔の働きによって引き起こされて行くのです。だからこそ、私達は神を、そしてそのご計画を信頼し、焦らず、絶望せずに神に任せ、その助けの中で、神の僕、器として働くことが大切です。しかし同時に、納得できないこと、については、「何故ですか?あなたのみ心はどこにあるのですか?」と問い続けることが大切です。答えは色々な仕方で与えられるでしょう。それが、この世界に対する、神を信頼する中に生まれる深い洞察を、私達に与えて行くのです。祈りましょう。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。主は今日のみ言葉を通して、私達をあなたへの不信を生み出させる、悪しき力によって生み出される矛盾について、新たな思いを与えられました。この不完全さや矛盾に傷つき、失望してしまう私達ですが、そんな私達を愛し、赦し、選んで下さった主よ、信仰の目でこの世界を見つめる私達となることが出来るよう導いて下さい。主のみ名によって感謝して祈ります。アーメン