<こどもの教会のための祈り(小説教)>エレミヤ書20章7-9節
今日の旧約聖書は創世記で、アブラハムの子どものイサクが結婚するお話。アブラハムはイサクのお父さん。お母さんはサラ。イサクはアブラハムのことはとても尊敬していたけど、ちょっと怖かったかもしれない。イサクはお母さん子でね、サラが大好きだった。サラとは長く一緒にいても楽しいし、何でも話せるお母さんだったんだね。そのサラが死んじゃった。聖書に127歳まで生きた、って書いてあるから、物凄く長生きだったけど、イサクはもっと長く、いつまでも生きていてほしかったんだと思うよ。寂しくてガッカリして、凄く悲しかったんだ。それを見てアブラハムは、イサクのお嫁さんを捜そうって考えるんだ。そして見つかったのがリベカ。そのリベカが、アブラハムの下で働いていた男の人に連れられて来て、イサクと初めて会ったところが今日のお話。イサクはリベカを一目で気に入って、結婚したんだ。聖書に、「イサクはリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」って書いてあったね。お母さんが死んじゃったのは悲しいけど、その悲しみが慰められて、幸せになったってことだね。私達も家族を大切にして、神様が喜んで下さる家族になるために努力すると、神様は辛いことや悲しいことを乗り越えていく力を、家族を通して下さるってことだね。お祈りします。
コロサイの信徒への手紙4章1節 説教「あなたがたの主人」要旨
今日のみ言葉であるコロサイの信徒への手紙は、長い間パウロが書いたものだと考えられてきましたが、近年の研究から、パウロの晩年あるいは死後、パウロに深い影響を受けた彼の弟子によって、パウロなりきる思いの中で記されたものだと、私は考えています。
今日の箇所は3章18節からの続きの箇所です。そこには、「家族に対して」と小見出しがつけられ、キリストを主と仰ぐ家族は、どの様にあるべきかを示しています。そしてここは、その前の17節に記された、「そして何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」という言葉に、深く結びついていると、私は考えています。
その前半は、「あなたがどんな生き方をするにせよ」ということだと理解出来ますが、それに続く「すべてを主イエスの名によって行う」とは、「主イエスの福音に基づいて生きる」ということでしょう。私達の不完全性から生まれる罪を赦し、新しい生き方を与えるために、イエスはキリスト(救い主)としてこの世界に来て下さいました。そのイエスの福音に基づいて生きるためには、「主イエスの名によって生きる」ことが大切です。それは、主イエスの本質に包まれて生きる、と言い換えることが出来ます。何故なら聖書にとって名前とは、そのものの本質を呼び出す為のものだからです。
そして主イエスの本質とは、私達への愛と平和です。私達の弱さから生まれる全ての罪を赦すために、御自分の命を差し出して下さった献身的愛がその本質の一つであり、その愛に気づき、感謝と共に主に従おうとする時、私達の心に平和が与えられ、神に喜ばれる新しい生き方に向けて歩み始めます。この手紙の著者が「主イエスの名によって」と記したとき、それは主イエスの本質に包まれてと、イメージしていたのでしょう。新しく生きようとする私達を守るために、主イエスは主の本質(愛と平和)で包んで下さる、私達は相変わらず弱いけれども、悪しき力から守り成長させるために、主イエスはの愛と平和で包んで下さる、というのです。それを知った時、私達の生き方は、「イエスによって、父である神に感謝する」ことに導かれます。
私達は、どこまでも自己中心的です。主イエスに守られているのを知りながら、利益があることにはいくらでも感謝をしますが、辛いことについては、不満が心にいっぱいになります。でも、キリストの愛と平和に包まれて生きるのですから、マイナスのことがあっても、それをプラスに変えられるはずです。ですから、先ず、主イエスを与えて下さった神に感謝の思いを持ち、そして目の前の出来事を、「イエス様ならこんな時どうなさるか」と考えながら、神様に感謝するために用いなさい、と勧めているのです。
その様な戒めを前提として、今日のみ言葉を読みましょう。「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」これは当時、奴隷を家に置いておく位の社会的地位にあった主人達への勧めです。コロサイの信徒達には、その様な人々が多かったのかも知れません。奴隷とは、人間としての権利・自由を否定され、他人の支配の下に、売買・譲渡の対象とされる人と言うことが出来ます。
アメリカの初代大統領であるジョージ・ワシントンは、南部の農場主であり多数の奴隷を使っていました。彼は慈愛と寛容の心を持った誠実な信仰者、と現在では評されていますが、バージニア州にある彼の家を訪ねると、奴隷達の居室は劣悪です。しかし同時代の人々の中では、彼の奴隷に対する扱いは、まだましだったのかも知れません。しかし、ワシントンを含め当時の人々が、今日のみ言葉をどう読んだのだろうとも考えるのです。
み言葉は、「知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」と続きます。あなたがたにも、天の父と仰ぐ神が主人としておられるのだから、その主人が求める扱いを、奴隷達に対してなしなさい、ということですし、その扱いは、主イエスに倣って、その保護と導きの中で、神が喜んで下さる扱いをすることです。しかし結局のところ、ワシントンの様な偉人でさえ、「他の主人よりはましに扱う」程度にしか出来なかったところに、人間の罪深さ、弱さがあるということでしょう。奴隷を隣人とはみなせなかったのです。しかし、私達はどうでしょう。神から与えられた隣人なのに、この人は隣人ではないとしている人はいないでしょうか。このみ言葉を、自分に向けられたものとして、受け止める必要があります。隣人に対し、神が望まれる対応をしているか、今一度振り返らなければならないのです。キリストに結びつき、キリストとの交わりの中で、その愛と平和を心に満たし、キリストに倣って、真の主人である神に喜ばれる生き方は何か、祈り求め、主の助けの中で実践する私達でありたいと思います。祈りましょう。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。コロサイ書が私達に勧めることの一つは、「キリストに結びつき、その平和を心に満たす」ことだと知りました。それがコロサイ書が示す、全ての倫理の基礎であり、私達が人生を生きる上での、大切な指針であることを覚えます。しかし私達は弱く、この勧めを実践し得る力は、私達の中からは生まれません。それを祈り求める信仰を、私達に与えて下さい。主のみ名によって感謝して祈ります。アーメン