<こどもの教会のための祈り(小説教)>エレミヤ書7章1-4節
今日の旧約聖書のみ言葉の中にこんな言葉があった。「万軍の主はこう言われる。『お前たちの道と行いを正せ。』」これはね、神様が人間達に、「君達は、どんなふうに生きているか、しっかり考えてみなさい」って仰ったってことなんだよ。
私達人間はね、ちゃんと生きてるって思ってても、大事な人を悲しませたり、苦しめたりしちゃうんだ。だからね、いつも自分の思いがどこにあるか、自分の今したいと思っていることが、どんな思いからのものか、ちゃんと考えていなきゃいけないんだ。神様に祈りながらね、それを確かめて生きて行かないと、自分の生き方や思いにこだわって、誰かを悲しい思いや辛い思いにさせちゃうんだね。これって、大事なことだよ。お祈りします。
使徒言行録19章15-16節 説教「お前たちは何者だ!」要旨
本日与えられた使徒言行録のみ言葉には、パウロがエフェソの町で経験した、一つの出来事が記されています。当時この町は、港町として賑っていました。集まって来る多くの男達は、金銭欲そのものの様な人々です。商売の成功、貿易による一攫千金、それを手にするためには、多少の荒っぽい生き方も、許容する人々です。その心を捉えていたのは、この町のアルテミス神殿の女神。豊かな実りを約束する神です。その実りには、商売繁盛、人生の勝者としての豊かな財産というものまで、含まれるようになったのです。
それを手に入れるために、今日、明日、どの様に生きて行けば良いか、それが多くの人々の関心でした。ですから女神に祈るだけでなく、もう少し詳しい、具体的な指示を人々は求めたのです。そこで登場したのが占い師や祈祷師でした。
この様な者達の中にも、その世界で成功者になりたい、名を上げたい、という欲望をたぎらせた者も少なからずいて、彼らは常に、「効き目のある神や祈りの仕方」を求めていました。彼等の中に、「パウロが宣べ伝えている主イエスの名によって命じる」と唱えた者達がいたのです。それは、パウロの宣教活動の中で、神の働きにより数々の奇跡が生み出されて行ったからです。「これは使えそうだ!」とインチキ宗教家は考えたのでしょう。
パウロの奇跡を説明する記述の中に、「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒やされ、悪霊どもも出て行くほどであった。」とあります。この、手ぬぐいや前掛けとは何だったのでしょう。これをある神学者は、「テント職人としてのパウロが、仕事に使っていたもの」と説明しています。つまりこれらは、礼拝のための聖具でも、式服でもありません。職人パウロが日常で用いる物なのです。これが奇跡を引き起こす道具となる。何故でしょう。それはパウロが骨の髄まで徹底的に、主に従うことに拘っていた、集中していたからだと思います。その様なパウロの働きを神は喜ばれ、それを支えるために奇跡を与えられました。そしてそこで与えられる実りを目にした偽物宗教家が、主イエスの名を利用し始めたのです。
その中に、「ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たち」がいました。エフェソの町にはユダヤ教の神殿などありません。ですからユダヤ人祭司はいないはずです。ですから、「ユダヤ人祭司長スケワ」という言い方に、ある種の胡散臭さを感じます。可能性として考えられるのは、このスケワなる人物の先祖が地方聖所の祭司を務めていたことから、流れ流れて暮らしているうちに、「祭司の家系」にいつの間にか尾ひれがついて、「ユダヤ人の祭司長の家系」となり、インチキ宗教家として名を成すために、「ユダヤ人の祭司長スケワ」を名乗るようになったということなのでしょう。この種の人々は、利用できるものなら何でも利用したのです。そんな彼らに対して、悪霊は言い返します。「イエスのことは知っている。パウロのことも良く知っている。だが、いったいお前たちは何者だ!」
自然界の生物の中で、天敵から身を守るための能力に長けている生物がいます。幾世代にも亘る暮らしの中で、この生物の体内に天敵に対する情報が蓄積され、身を守る能力を身に着けたのでしょう。悪霊達にとって、神の側に立つ者達は憎むべき存在です。しかも、悪霊達にとっては、その中の頭目の様な存在である主イエスは、天敵中の天敵なのです。ですから、その天敵から身を守るために、悪霊はその体内に主イエスと従う者達の情報を蓄積させていたのでしょう。悪霊に操られている人々は、身の程知らずにも主イエスと従う者達に反抗する蛮勇を持ち、やがて破滅して行きますが、悪霊そのものは、身を守るために、主イエスと従う者達から逃げ出すのです。
私達は、この悪霊の言葉を心に刻み、私達は何者であるか、パウロのように主に従うことに集中する者となっているかを吟味しなければなりません。これが福音宣教の力を生み出すからです。この出来事の後、「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシャ人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。」と記されていることから、主イエスと言う方をいい加減に扱うと大変なことになる、という評価がエフェソの町に定着したことが分ります。パウロの生き方を主が用いて、大きな成果を生み出して行ったのです。このパウロの生き方に倣い、主の助けの中で、主に従う歩みをご一緒に深めたいと願うものです。祈りましょう。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。エフェソの偽祈祷師は、自分のためにイエスを利用し、それに対しパウロはひたすら主に仕える生き方を貫いたことを、今日は覚えました。この違いから生まれたことに、エフェソの人々は胸を打たれたことを思う時、主に従う生き方からこそ、真の福音宣教がなされて行くことを覚えます。パウロの生き方に倣い、あなたの僕として生きる私達として下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン