<こどもの教会のための祈り(小説教)>イザヤ書49章15-16節
今日の旧約聖書のみ言葉に、「見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。」ってあったね。これはイザヤさんが私達に、「神様はあなたたちのことを、絶対に忘れないよ。」って教えてくれたことなんだ。先生ね、いろんなこと、すぐ忘れちゃうんだよ。小学生の頃は、「忘れ物チャンピオン」って呼ばれてたくらいなんだ。だから今でもね、大事なこと忘れちゃうから、忘れない様に、大事なことは、携帯電話のメモやカレンダーってところに書いたりしてるんだけど、でもやっぱり忘れちゃうんだ。
だからね、時々だけど、ホントにホントに忘れちゃったらいけないことを、手のひらにマジックで書いたりすることもある。見られちゃったら恥ずかしいけどね。神様は神様だから、私達人間と違って、大事なことを絶対忘れたりしない。でも、そんな神様が、「あなたたちのことを本当に大事にしたいから、何があっても忘れたりしない様に、手のひらに書き込んでおくよ、って言って下さるんだ。そこまで私達のことを大事にして下さっているんだね。お祈りします。
使徒言行録4章29-33節 説教「すべてを共有していた」要旨
今日の新約聖書のみ言葉に戸惑いを覚える方々が、特に教会に来始めた方々とか、キリスト教主義の学校で聖書を学ぶ方々に、時々おられるようです。「信じた人々の群れは心も思いも一つにして、一人として持ち物を自分のものだという者はなく、すべてを共有していた。」という言葉から、「教会は、原始共産制のような団体を目指しているのか」、等という疑問が生まれてくるからです。
確かに、表面的に読めば、その様に考えられるのかも知れませんが、使徒言行録の著者がこの部分で言いたかったことを正しくとらえるためには、その少し前に書かれていることに注意をしなければならないと思います。
それは3章からの物語です。ペトロとヨハネが、神殿に上ってゆく途中の「美しい門」と呼ばれる場所で、足の不自由な男を癒します。そして、それが大きな反響を呼び、ペトロは自分の周りに集まってきた人々に、神殿の中の「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所で、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたのです。そして、そのためペトロとヨハネは拘束され、サンヘドリンと呼ばれる議会で取り調べを受け、迫害が加えられるのですが、彼らは「神に従わないであなたがたに従うことは、正しいことではない。」と断固たる拒否を貫きました。そして釈放されると、仲間達のもとへ戻って、一部始終を報告します。そして教会では期せずして、熱心な祈祷会が始まっていくのですが、その祈りとして、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」という、教会の人々の切なる祈りが記されているのです。
このような祈りに応える様に、新たに聖霊が注がれ人々は聖霊に満たされ、一層宣教に励むのですが、この祈りの内容に、今一度注目したいと思います。先ず語っているのは、「権力者の脅しに屈せず、思い切って大胆にあなたの福音を語ることが出来る勇気を下さい」ということです。当時の社会の中で、絶対的な少数者として切る彼らにとって、これは切実な願いだったでしょう。そしてそのために求めたことは、「あなたの導きによって私達が、聖なる僕イエスの名によって、この社会の人々に仕えて行くことが出切る様に、宣教のための力を下さい」ということでした。
ここでの「聖なる僕イエス」とは、イエス・キリストは神のみ子として、父なる神のみ心をこの世界に伝えるために、全てを献げて神に仕えた人だった、という教会の理解を示す言葉です。そして続けて、「私達はそのイエスを私達の救い主と信じ、イエスの僕として、イエスがこの世界でなした、神様が私達をどんなに大切に思って下さり、守り支えて下さっているかを示す業を継承し、一人一人が『小さなイエス』として生きて行きたいのです、その力を下さい」と祈っていると理解することが出来ます。
初代教会の人々は、その思いを、そして信仰を共有したのです。それによって「心も思いも一つになった」、つまり心の中心を、主イエスの僕として生きることに定め、そこから一つ一つの、それを具体化するための思いを一致して生みだしていったのだと、使徒言行録の著者は私達に告げます。そのような心と思いを共有する歩みが、その時代においては「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」という教会の在り方でした。しかし、その様な在り方に強調点が置かれているのではなく、「心と思いを一つにしていた」ことに強調点があります。そして使徒言行録の著者は、聖なる僕イエスの僕として、私達に「あなたたちも私達の生き方を継承し、あなたたちの時代で、教会が主イエスの僕として生きるために、何をすべきか真剣に考えて行きなさい」と求めるのです。その思いを受け止め、現代に生きるキリスト者の課題を、そして教会の課題を、主イエスの僕としてなすべきことを、ご一緒に祈りつつ求めて行きたいと願います。祈りましょう。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。み言葉を通して、初代教会の人々を一つにしたのは、「聖なる僕イエス」の僕として神に仕える信仰だったことを、今日改めて思いました。この信仰を人々が共有したことが、教会に集う人々の生き方への共有も生み出したことを覚えます。この信仰を、私達も継承し、主の僕として、主に仕えるために一つとなり、教会の課題やあなたな恵みを共有する私達となることが出来るよう、導いて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン