<こどもの教会のための祈り(小説教)>イザヤ書60章19-20節
今日の旧約聖書は、イザヤ書の60章19-20節だったね。今日のみ言葉は、神様が私達と一緒にいて下さることは、どういうことかっていうことを私達に伝えているんだ。天気の良い日には、お日様が見えるね。その夜には、お星様やお月様が見える。私達はね、お日様の光を浴びないと、身体の調子が、だんだん悪くなっちゃうし、気持ちも沈んで来るんだね。夜だって、きれいなお月様を見ることが出来れば、なんか、得したような気持になるね。お日様やお月様って、私達に生きる力をくれるんだね。神様は、そのためにお日様やお月様を造って下さったのかも知れない。でもね、いつもいつも、お日様やお月様を見られる訳じゃないよね。でも大丈夫。神様がついてるからってイザヤは言ったんだ。「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」っていうのは、そういう意味なんだね。お祈りします。
フィリピの信徒への手紙2章12-13節 説教「私達の内に働く神」要旨
今日のみ言葉の12節で、パウロはフィリピの教会の人々に、こう語り掛けました。「いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」
ここで先ず注目すべきなのは「従順」ということです。誰に対する従順を求めているかと考えても良いでしょう。一見すると、パウロへの従順を求めているようにも感じますが、求められているのは、神への従順です。この箇所の少し前で、パウロはキリストについて、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と語っています。12節の「従順」も、この従順に連なるものです。ここでパウロはフィリピの教会に対し、「私と一緒にいた時に、共に神への従順を心掛けたように、私が不在の時もその歩みを続け、更に深める生き方をして欲しい」と求めているのです。
そして、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」との言葉が続きます。何を「恐れおののくのか」と言えば、「神に選ばれた者として生きる責任に対する、恐れとおののき」です。私達は本来、罪の中で滅びへとひた走りに走る生き方しか出来ない人間でした。神がどんなに私達を大切にして下さっているかも気づかず、都合の良い時だけ神に頼り、思い通りでないとその神を否定する、そんな生き方でした。その私達を神はどこまでも愛し、愛する我が子を十字架に付けて、私達に代わって罪の責任を取らせ、そして私達には赦しを下さる、そんな重い、激しい決断をなさったのです。その結果として今の私達がいる、その大切な、神と御子イエスの貴い働きを幸いにも知り、感謝と共に信仰の道に入ったのが私達です。そんな価値のない私達を、そこまでして大切に扱って下さる神とキリストに対しては、恐れとおののきをもって生きるしかないのです。
ですから私達は、その様な神の、本当に感謝をお献げする以外に、他の方法が思いつかないほどの有難い救いを与えられ、今の人生を生きているのですから、その神の働きに少しでもお応えする生き方として、み心を求めながら、献身的に神にお仕えする生き方をすべきです。
でも、考えてみて下さい、私達の神への感謝は、どれ位表されているのでしょう。相変わらず罪人として、み心を示されているのに、それが分からない、分かりにくいと公言し、自分の思いの命じるままに生きている、神に献身しているのではなくて、自分の思いに献身している、それが私達の現実です。「私はキリスト者として、教会員として、やるべきことはやっている」と本当に思えるでしょうか。もしそれを思うなら、それは自惚れや自分を偽っているに過ぎません。もし私達にドライブレコーダーがついていて、昨日一日何をしたかを正確に振り返ることが出来れば、恥じ入ることしか出来ないはずです。
しかしパウロは言います。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」パウロは、能天気に自分を見た人ではありません。神に従えず、罪に支配され、それが示す法則に従って生きてしまう自分を、厳しく見つめた人です。その彼が、「私達は神を信じる者達だ。私達が神を信じることが出来たのは、神が信仰を与えて下さったからだ。そして、心に生きる神として、私達の魂には聖霊が生きているのだ」と言うのです。
使徒言行録に、パウロがキリストを信じた場面が出てきます。これは一つの可能性に過ぎませんが、私はそこに記されたパウロと主イエスとの会話は、パウロの心に中に響いたものなのではないか、心に聖霊を与えられ、主イエスを信じる者となったパウロは、心に中に聖霊という形でキリストが住んでいると感じたのではないか、と考えています。「どんな時にも罪に負けず、神のみ心に生きた主が、あの、苦しい十字架の時にも、悪魔の力に屈しなかった主が、私の心の中心にいて下さる。罪を克服できない私だが、罪に勝利した主が、私を育てて下さるのだから、私をやがて真の献身者として完成させて下さる。それを希望として生きよう!」彼は聖霊の働きを、私達を神に仕える者とすることだと考え、聖霊の導きの中で歩む、私達の信仰の歩みが、私達の救いを完成する歩みへと導くと信じたのです。導かれて、その信仰に連なる者でありたいと願います。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。パウロは聖霊の働きを、私達を神に仕える者とすることだと考え、その歩みが、聖霊に導かれて生きる私達の歩みが、私達の救いを完成すると信じたことを、今日覚えました。その確信が、彼を主に従って生きさせる原動力の一つであったことを思います。彼の信仰に連なる私達となるよう、どうぞ導いて下さい。主のみ名によって祈ります。
アーメン