<こどもの教会のための祈り(小説教)>ヨエル書2章27-3章2節
今日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)っていう、私達にとって大切な日なんだ。それはね、今日が「教会の誕生日」だからなんだよ。今日が誕生日だとすると、教会はいくつになったんだろうね。いつ教会が生まれたかは、今のところ誰も分からないんだけど、多分2千歳は超えてると思うよ。凄いね。
イエス様が天に帰られてから、弟子達はみんなで一所懸命お祈りをして、神様のお心を知ろうとしたんだ。そうしたら、火のようなものが天から降って来て、弟子達の心の中に、イエス様が入って下さったように感じて、いつでも、どんな時でも、誰にでも、イエス様は救い主ですよ、ってお話し出来るようになったんだよ。そして教会が生まれた。その日が、ペンテコステって呼ばれる日だったから、教会の誕生日も、ペンテコステって呼ぶようになったんだよ。その後、弟子達は、聖書(旧約聖書)をお祈りすると同じ位熱心に読んで、ペンテコステの出来事の意味を知ろうとしたんだ。そして見つけたのが今日のヨエル書でね、「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」って書いてあるね。これは、世界中の人達みんなが、イエス様を信じられるようになるよ。イエス様って私達を守って、導いて下さる神様だよ、っていろいろな人達に、お話出来る様になるよ、ってことなんだ。その為に、教会は生まれたんだね。お祈りします。
使徒言行録2章1-4節 説教「教会は一つになった」要旨
今日はペンテコステの日曜日です。最初のペンテコステが与えられた状況を振り返りながら、私達の進むべき道について、思いを一つにして行きたいと願っています。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とみ言葉は始まります。五旬祭とは、過ぎ越しの祭りから7週間目(つまり50日後)にやってくる祭りです。この日を迎えた主を信じる人々(11弟子、主イエスの家族、最後まで主に従った女性達)が、一つとなっているという記述に、私達は注目しなければならないでしょう。何故なら、この人々は様々な思惑の中で、一つになれない人々であったからです。
その思惑を生み出したのは、主イエスに対する負い目です。十字架を前に逃げてしまった11弟子、救い主としての主イエスを、なかなか受け入れなった主の家族、そして、苦しみながら十字架の上で息絶えて行く主を、ただ、涙と共に見つめていることしか出来なかった女性達。それらは皆、主への負い目を生み出しました。
その中で、自分達の思いを少しでも楽にしようと、「犯人捜し、責任の重さ追求」を始めたとしたら、どうでしょう。一つになるどころか、いがみ合い、責め合う関係になります。
私達の経験から考えてみても、誰かを批判する、責めるということへと私達を動かす原動力は、怒りです。その怒りの原因は、私達の内的なものだけではなく、外的なものまで含め様々ですが、それが怒りの感情を生み出し、批判や攻撃といった行動を生み出します。
その様な時に何が起こるかといえば、互いへの愛が冷えることになります。多くの場合、対象となる人に直接その思いをぶつけることはせず、陰口という形を取るのですが、それを聞かされて感謝したり、賛同したり、ということより、聞かされたことへの嫌悪感が生まれ、吹き込んだ人への敵意さえ生まることは少なくありません。それは、本来私達が目指すべき生き方とは違うものだということを、無意識のうちに理解しているからです。
その様な時にどうしたら良いかといえば、それは祈ること、神と向き合うことが最良の方法です。それも、自分の罪に気づくため、それを悔い改めるために、神と向き合うための祈りが必要です。私は、最初のペンテコステを経験した人々が何故一つになることが出来たのかを考えると、おそらく、この人々が主への負い目を抱えて必死に祈ったことが大きかったのだろうと考えています。その為に、先ず神の赦しが必要です。赦された現実の中でこそ、私達は深く罪を見つめることが出来るからです。その意味で、「私達の罪を赦すために、主は十字架に掛った」という事実は切実でした。深い深い罪の自覚に震えながら、赦されて生きる喜びと感謝に、人々は導かれたのです。復活の主との出会いは、罪が赦され、受け入れられ、新しい使命が備えられて行く体験でした。その中でこの人々は、主の支えの中で、自らの罪を祈りにおいて深く見つめたのです。そうすればする程、感謝の思いが強くなります。そしてその感謝が、互いを受け入れ一つになることと、わだかまりを捨てて一つになる歩みを支えたといえるでしょう。
このように、一つになれない集団が、祈りの中で罪と向き合い、主に助けを求め、感謝の中で一つとなって行きました。その時、ペンテコステは、この人々を新しくする清い、確かな聖霊と共にやって来たのです。それは、なかなか一つとなれない私達に希望や示唆を与える出来事でしょう。その道に進むために、祈りを合わせ、主に支えられ、ご一緒に歩みたいと思います。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。一つになれない集団が、祈りの中で罪と向き合い、あなたに助けを求め、それを通して一つとなった時、ペンテコステはあなたから与えられました。それは、なかなか一つとなれない私達のへの希望であり、どの様に歩むべきかを示唆するものだと知りました。主よ、どうぞ私達が、その道に歩むために、祈りを合わせることが出来ます様に。主のみ名によって祈ります。アーメン