<こどもの教会のための祈り(小説教)>ネヘミヤ記2章17-18節
今日の旧約聖書のお話は、ネヘミヤっていう人のお話。ネヘミヤはユダヤ人だったんだけど、自分の国が外国の強い国にやっつけられて、外国で王様に仕えて行かなきゃならなかった。幸せなことに王様はネヘミヤを気に入って、とても大事にしてくれたんだ。
ある時、王様はネヘミヤに聞いたんだ。「元気がないね。何な悩みでもあるの?」ネヘミヤは答えたんだ。「自分の国の、しかも神様を礼拝する場所の神殿が、壊されてボロボロです。とても大事な場所なのにと、私は苦しいのです。」
王様は言ったんだ。「必ず帰って来るなら、直して来て良いよ。」それでネヘミヤははるばる旅をしてエルサレムに帰ったの。神殿は思っていたより更にボロボロ。「こりゃ大変だ」って思ったんだけど、いろいろ計画を練って、ついに仲間になってくれそうな人たちに打ち明けたんだよ。「エルサレムの神殿を建て直そう。きっと神様が助けてくれるよ。」
本当に大変な仕事だったけど、ネヘミヤは諦めないで、仲間達と頑張ったんだ。神様を信じれば、どんな大変なことも乗り越えていけるって、信じることが出来たからなんだよ。神様が助けて下さることなら、どんなことでも、出来るんだってことを教えてくれるお話だね。祈りながら進むことが本当に大事だよ。諦めちゃいけないんだね。お祈りします。
今日の御言葉、ヨハネ福音書11章21-26節は、主イエスが愛する友ラザロを甦らせた物語の一部です。ラザロ重体の知らせを聞いて駆けつけた時、ラザロは既に亡くなっていました。ラザロの姉マルタは、主イエス到着の知らせを聞いて、迎えに出ます。そこで言うのです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今も承知しています。」
この言葉の、前半部分が大切です。彼女はここで、主イエスに対する怒りを必死でこらえながら、主と向き合っていると感じるからです。主イエスは、ラザロのとマルタ、そしてマリアと、深い心の交流を持っていました。それが、主にとっても、ラザロ、マルタ、マリアにとっても喜びでした。しかし、マルタの中に、ラザロを失った悲しみは本当に大きく、それを処理出来ずに、悲しみだけではない感情が生まれたのだと感じます。ラザロともう一度会いたい、彼を取り戻したい、そんな思いは、日に日に強くなっていったことでしょう。そして、ラザロが重い病気にかかった時、マルタは主がすぐに駆けつけてくれると信じて、使いを出したのです。しかし主はなかなか来られない。そして来られた時には既に遅し。それがマルタの中に、怒りを引き起こしていきました。
深い友情と信頼で結び合っていた両者の関わりは、羨ましい程に美しいものだったに違いありません。特に周囲に常に気を配り、仕えるということに集中していたマルタは、全力で主に仕えたのだと思います。それはマルタにとって喜びでしたが、「私はこんなに主に仕えている」という思いも、生まれて来たとしても不思議ではありません。その中で、マルタは心の中に、「私達は主にとって特別な存在」という認識が、生まれていったのです。
ですからラザロの重病を知らせれば、主イエスは直ぐに来て下さるはずだと期待していました。しかしそれに反して、主はなかなか現れない。じりじりした思いの中で、不満が膨らんでいったのです。ですから、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」というのは、「今頃のこのこ現われて、遅すぎたと思わないのか。」という思いの現われです。
彼女の悲しみは、処理出来ないものとして彼女の心の中に大きくなり、「私達は主の特別な人」というある意味では無邪気な誇りが、悲しみから生み出す怒りへと育って行きました。そしてその怒りが、続く会話をすれ違わせています。噛み合わないのです。イエス「あなたの兄弟は復活する。」マルタ「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」イエス「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタ「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
マルタは、本当に主を「世に来られるはずの神の子、メシアである」と信じていたのでしょうか。もしそうなら、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。」という言葉は出る筈がありません。愛する者の死とは、マルタにこんな怒りを生み出すほどに深いものであり、死とは、これほどまでに重いものなのです。
その様な状況の中でも、「わたしは復活であり、命である。」と主は語られました。「私は死を克服し、永遠の救い主としてあなたの前に立つ存在である。あなたを含め全ての人に、真の命の用い方を示し、その道に生かす者である。」と主は宣言されたのです。全ての人に罪の赦しを与えるために十字架につき、そして全ての人を救うためによみがえられた主。主に不可能はありません。罪を赦されて、主を真に信じる道に導かれる私達の幸いを思いながら、主と共に生きることが出来る「今という時」が与えられているに感謝して、主に従うこと歩みをご一緒に与えられましょう。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。主イエスはメシアとして、御自身の本質をマルタに示されました。しかしラザロを失った悲しみの中、罪に遮られて、それを受け止めきれず、心から主を信じることがマルタには出来なかったことを改めて覚えました。罪を赦されて、主を真に信じる道に導かれる私達の幸いを思います。主と共に生きることが出来る「いま」に感謝して、主に従うことが出来ますように。主のみ名によって祈ります。アーメン