<こどもの教会のための祈り(小説教)>列王記上17章22-24節
今日の列王記のお話は、預言者エリヤのお話だったね。神様からの、「みんないい加減な生き方をしているから、この国は不幸せになる。雨が全然降らないぞ」ってお言葉を戴いて、伝えたらその通りになって、王様に殺されそうになったんだよ。エリヤは逃げている最中にお腹が空いたから、出会った女の人に「パンをくれないかな?」って頼んだら、「畑で何にも取れないから、最後の粉でパンを焼いて食べて、その後死のうと思ってる」って言うんだ。エリヤはね、「大丈夫だよ。僕のためにパンを焼いて。そうしたらパンを焼く粉も油もいつまでもなくならないよ」って答えたの。女の人は「ホントかなあ?」っと思ったんだけど、エリヤの言った通りにしたら、その通りになって、ビックリしたんだ。
でもある時、女の人の子どもが病気になって死んじゃった。女の人は悲しんで悲しんで、大変だった。だからエリヤは必死で懸命に祈ったんだよ。そうしたらその子は息を吹き返したの。その時女の人は「あなたは本当に神様の人で、あなたがはして下さる神様の言葉は真実です」って叫んだ。エリヤはホッとしただろうけどちょっと変だね。子どもが息を吹き返したから本物だって分かったなんて、息を吹き返さなかったら偽物なんだろうか?でもね、それが僕達人間ってものなんだよ。特別のことをして貰わないと神様信じられないんだ。そんな人間の自分勝手を赦すために、イエス様は十字架について下さったんだね。お祈りします。
イースターを経て、今年度も復活節第3主日を迎えました。今日は、今年の活動目標(標語)「宣べ伝える教会-讃えつつ、力を尽くし、遣わされ、天に任せて、問い続けよう」の「宣べ伝える教会」について、このために与えられた聖句である、マルコによる福音書9章24節を通して考えたいと思います。この聖句と活動目標と、うまく一致しないと感じられた方もおられるかも知れません。でもここには、私達が「宣べ伝える教会」となるために、とても大切な事柄が記されているのです。
主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて出かけておられる時に、残された弟子達に難題が持ち込まれます。悪霊に取りつかれて苦しむ子を連れて、父親が癒しを求めてやって来たのです。でも主は不在です。しかし懇願する父親に押されて、多分不安の中で癒やしを試みます。結果は失敗。大勢の群集や駆けつけてきたファリサイ派の罵声を浴びて、残された弟子達は絶体絶命のピンチを迎えますが、そこへ主とペトロ、ヤコブ、ヨハネが戻り、主はこの事柄の先頭に立たれるのです。
主に群集の中にいた一人(おそらく父親でしょう)が教えます。「この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるように弟子達に申しましたが、できませんでした。」主イエスは残していった弟子達の不信仰(自信のなさと言っても良いかも知れません)を嘆きながら、その子どもに向き合われます。父親は辛さのあまり「霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。(この子の身体には、酷い火傷の跡や、他の子ども以上に水への恐怖心が残ったかも知れません。もしそうなら、それを見るたび、代わってそれを引き受けることも出来ない切なさが、父親を苦しめたでしょう。)おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください!」と叫びました。本当に切羽詰った様子が伺えるのですが、主はその言葉に直ちに反応して、言われます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」この言葉には、自信なさげに対応して失敗した弟子達に対する思いも含まれていると思いますが、決断を迫る厳しい言葉として、父親には響いたのです。
彼にはこの出会いの前に、たくさんのいかがわしい自称「治し屋」達との出会いがあったのでしょう。彼の言葉には、「あなたは本物ですか?」と言う問い(疑いを含んだ)があったと思います。弟子達の失敗を見せつけられているのですから尚更です。しかし主は、彼に敢えて「信じる者には…」との言葉をぶつけるのです。ある神学者は、この主の言葉に、この様な解説を加えます。「『われ信ず』と敢えて言う人は、同時にまた、そう言い得るのはただ神が常に新しく自分を信仰へ(信仰を持つ者へ)と助けて下さることを信ずるのであり、(中略)人間は、自分の不信仰を知ることにおいてのみ、信仰と言う神の賜物(これは神からの贈り物ということです)を喜び(それを受け取り)、これを大胆に告白することが出来る。」主の御言葉には、厳しいだけでなく、「私はあなたを助ける。しかし同時に、あなたも私と一緒に働く覚悟が必要なのだ。あなたは観客として経つのか、それとも私と一緒に舞台に立つのか」という問いが含まれていたのです。ですから父親は直ぐに叫びます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください!」そしてこの言葉を耳にするや否や、主はその息子を癒やすために、全力の戦いを開始されたのでした。
この父親の叫びに「宣教する教会」の本質があります。この父親のように「信仰のない私達」を自覚する時、信仰とは神からの賜物であり、その貧しい私達を支えて下さる主の働きが分るからです。その主を信じて、主と共に働き歩む私達となりたいと思います。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という父親の叫びに「宣教する教会」の本質があることを、改めて知りました。「信仰のない私達」を自覚し、それでも信じようとする時、その私達を支えて下さる主の働きが分るということも、心に刻みました。その働きを信じて歩む私達として下さい。
主のみ名によって祈ります。アーメン