<こどもの教会のための祈り(小説教)>イザヤ書65章23-25節
今日のイザヤ書の御言葉に中に、「狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ」って言葉があったね。神様が救って下さったら、この世界の争いや殺し合いが無くなるってことを言っているんだ。先生も信じられないって思うこともあるけど、イエス様がもう一度この世界に来て下さる時、世界はそうなって行くんだよ。
神様がこの世界を造って下さった時には、狼と羊は友達だったし、ライオンと牛も仲良しだったってイザヤは思ったんだ。どうして狼が羊を襲うか、ライオンがキリンを殺して食べちゃうか、それは僕達人間が神様の喜んで下さる生き方が出来ないから、世界全体がその所為でみんな自分のことしか考えられない世界になったからだって考えたんだ。だからいつかこの世界に神様が助け主を送って下さって、神様の喜んで下さる世界に戻すに違いないって信じたんだ。その助け主がイエス様だったんだね。だけど、私達の神様に背く思いが余りにも大きかったから、十字架に掛って命を投げ出さなきゃならなかった。そして復活して天に昇って、もう一度この世界に戻って神様の喜ばれる世界にして下さるんだよ。今イエス様は、父なる神様の傍にいらして、私達を助けながら、イエス様を信じる人がたくさんになるのを待って下さっているんだね。お祈りします。
マタイによる福音書は、主イエスの復活の物語を記した後に、2つの罪人からのリアクションを記しています。一つは祭司長達と長老達の陰謀。もう一つは、11人の弟子がガリラヤで復活の主にお会いした際、足並みが乱れていたという知らせです。
第1の陰謀は、主の墓で警戒していた番兵(祭司長の配下の神殿警察の兵士)が、主の復活を知らせた天使に肝を潰し、都に逃げ帰り、祭司長達に報告したところから生まれます。祭司長達は最高法院の議員である長老達と謀議を巡らし、番兵達に多額の金を与えて買収し、言うのです。「弟子達が夜中にやって来て、我々が寝ている間に死体を盗んで行ったと言いなさい。このことが総督ピラトの耳に入っても、うまく説得して、あなたがたに心配を掛けないようにしよう。」こうしてこの真っ赤な嘘の情報が流通し、「今日に至るまでユダヤ人の間で広まっている。」とマタイは報告しています。
第2の知らせは、天使の言葉を二人のマリアから聞いた弟子達がガリラヤに帰り、指定の山で主と再会するところで生まれます。マタイは記すのです。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた。」弟子達は一枚岩ではなかったのです。弟子達の中に、復活の主にお会いし、ひれ伏しながらも、内心に疑いをもっていた者が潜んでいたのです。
皆さんの中には、この二つの記事が書かれることによって、主の復活の出来事に泥が塗られて行くと、感じられる方がおられるかも知れません。でも私は、マタイは自分で得た情報を、包み隠さず述べる必要を感じたのではないかと思います。そして、彼には自信があったのです。自分にではありません。復活の主に従うことから与えられる自信です。
疑う者もその中にいる弟子達に対して、主はこう語りかけられました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」ここで大切なのは「権能」という言葉です。原語を辞書で引くと「権利、能力、権威」等の訳語が並んでいますが、ある聖書学者は「ここでの意味は天と地の全ての事柄を治める力、能力」のことだと説明しています。天も含めてこの世界に存在する全てのものを清めて、神の御心に適った存在へと導くために、どんなことでもすることを許される力、能力をお持ちになったということだと思います。
神のみ子イエス・キリストは、私達罪人を神の家族に迎えるために、この世界で神の福音を告げ知らせ、救いの到来を告げるために数々の行いをなし、私達の罪を清算するために十字架において死なれました。これは全て、父なる神のみ心に合致した行いでした。それ故、復活した主イエスは、永遠の救い主として弟子達の前に現れ、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と言われたのです。全ての人を主の弟子とするために働くのは弟子達です。しかし主は、永遠の救い主として弟子達をサポートし、あらゆる困難を乗り越える力を与えるために、「わたしは世の終わりまで(つまり、主が再臨されるその日まで)、いつもあなたがたと共にいる」と宣言されたのでした。
私達の救い主、イエス・キリストを、永遠の救い主として神は復活させ、主の十字架によって私達の罪を赦し、全て力を、私達を神の民として育てるために用いることが許されたというのに、「弟子達が真夜中にイエスの亡骸を盗み出した」という虚言を平気で流布したり、主の復活を疑ったりすると同様な罪人としての生き方を、私達は今尚捨てることが出来ません。私達はそこに絶望します。しかしマタイは、そんなものは想定内だと言わんばかりに、主が共に生きて下さる豊かさは、全ての罪を凌駕することを確信して、その福音を告げるのです。その恵みに感謝して、主と共に生きる毎日に進んで行きましょう。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。マタイは復活の物語の後に、敢えて罪から起こるリアクションを記しました。そんなものは想定内だと言わんばかりに。それは主が共に生きて下さることの豊かさは、全ての罪を凌駕することを、私達に示そうとしたのだと教えられ、主の愛は、赦しは、弱く小さな私達が生み出す罪の数々を飲み込んで下さることを知りました。感謝です。その恵みに感謝して、主と共に生きる私達として下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン