<こどもの教会のための祈り(小説教)>
今日の旧約聖書は「哀歌」っていうところからの御言葉でした。「哀歌」って「悲しみの歌」って意味でね、とっても辛いこと、悲しいことがあった人が作った歌の集まりなんだ。「冠は頭から落ちた」って書いてあったね。戦争に負けて、王様がもう王様じゃなくなって、捕まって連れて行かれた時、頭に被っていた王様の冠が落ちたところを思い出していたのかも知れない。ここで、この歌を作った人が凄いのはね、ただ悲しいとか、悔しいとかいうだけじゃなくて「わたしたちが神様に罪を犯したから」(神様の言うことをちゃんと聞かなかったから)こういうことになったって言ったことなんだよ。つまりちゃんと反省しているんだね。これってすごく大事なことだね、1日の終わりに、ちゃんとその一日を思い出して、神様が悲しまれることをしなかったか考えて、ちゃんと神様にごめんなさいをすることで、神様は凄く喜んで下さるんだ。そしてやり直しを与えて下さるんだね。お祈りします。
ある学者は、今日の御言葉から「人の子に言い逆らう者は赦される。」(マタイ12:32)というみ言葉が思い出されると語っています。そして「これは主イエスにどんな無礼と侮辱を働いても、その罪をって赦して下さる」ことの具体化だと解説し、「主は全く謂れのない侮辱と暴力と嘲笑を受け、それをじっと受け止められた。私達には出来ることではない。この福音書の著者は、ここに神として、救い主として、罪人を赦すために耐えることで戦っている方がおられたことを描きたいのだ」と教えるのです。
「全く謂れのない侮辱と暴力と嘲笑」という言葉から、最近の風潮を思いました。それは匿名性という安全地帯に身を置いて、背後から切りつけてくる卑怯な攻撃性を持った人々がしているということです。それはネット上での攻撃を含む、匿名で行われる数々の批判、中傷です。被害に遭った人々の痛みや苦しみは計り知れません。しかもそれを引き起こした人々は、加害者としての自覚もなく、正義の味方として溜飲を下げる、歪んだ感性の持ち主です。そして今日の御言葉に登場する人々も、同様に歪んでいます。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。」「他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」私は、この時主を罵った人々は、悪魔に操られ、その手先となったのだと思います。その言葉に、悪魔の「荒れ野での誘惑」の言葉を思い出すからです。「自分の力を、自分の栄光のために使え」「本当の神の子なら、どんな時にも守られるはずだ」「結果が全てだ、手段はどうでも良い」悪魔はあの時きました。それが悪魔の生き方です。そして誰の為に主が十字架に掛っているのかも分らずに、小さな悪魔として活躍した人々も、自らの歪みに気づかず、自己正当化の中で主を傷つけ、嘲笑うのです。
でも私達も、いつでも小さな悪魔と化す可能性を持っていることを、深く見つめなければなりません。先程紹介した現代の小悪魔も、そして主を苦しめた人々も、善良な心や優しい配慮、そして人知れず努力する頑張りも持ち合わせているのです。しかし誰でも、心の中の不満、苛立ち、妬み、寂しさなど、ネガティヴな思いを放置すると、そっと悪魔が忍び込み、手先にするための種を蒔きます。それが根を張り、悪魔の追従者が誕生します。ですから、例えばネガティヴな思いが生まれたら、その原因は何か自分で分析し、悔い改め、その思いを小さく出来る様祈り努力することが必要です。
でも私達は、祈り求めても、自分で変えたいと思っている部分を、中々変えることは出来ません。それは私達が受けて来た、心の傷と関わりがあります。私達はみんな不完全な罪人ですから、人を傷つけずには生きて行けません。その様にして誰かに与えられた傷が、固いしこりとなって心に残り、神様の賜物を正しく使えず、ネガティブな思いを生み出し、人を傷つける源になります。それは苦しい生き方です。本来の願いとは違うのですから。でもそれを捨てることが出来ず、偽りの正当化で心を麻痺させ、居直るのです。
そんな人間の現実を、主イエスは父なる神と共に深く見つめて来られました。そして深く悲しみながら、人間を救うために決断して下さったのが十字架でした。主イエスは神として、救い主として、私達罪人を赦すために謂れなき嘲り、罵り、嘲笑に耐えることで、悪魔と戦って下さったのです。沈黙の中で耐えることが、どす黒い罪の責任を負い、私達に赦しを与える愛でありました。「他人を救ったのに自分を救えない、十字架から降りられない救い主」として、私達を贖って下さったのです。この棕櫚の主日に、自らの罪を、どうすることもできない哀れな私達のために、主は十字架につき、赦しを与えて下さったことを、改めて心に刻みたいと思います。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。罪とは悪魔にそそのかされた、神からの賜物の誤用によって生まれることを、今改めて思います。そして罪人は悪魔の手先となることも覚えます。その中で、主はあなたのみ心に生き、忍耐と沈黙の中で罪と悪魔と戦われ勝利されました。主の十字架は罪人である、私達への赦しの為のものであったことを、心に深く刻む私達として下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン