<こどもの教会のための祈り(小説教)>
双子ちゃんって知ってる?そうだね、お母さんのお腹の中から出て来る時に、一人じゃなくて二人一緒に赤ちゃんが生まれることだね。双子ちゃんって、顔や姿がそっくりのことも多いんだ。今日の旧約聖書に出て来るエサウとヤコブはその双子だったんだよ。
姿かたちがそっくりでも、違う人間だから、好きなことや苦手なことは違うね。エサウは何かやろうとしたら、直ぐに走り出しちゃう人だけど、我慢があまり得意じゃない。ヤコブは逆にじっくり考えるタイプで、考え過ぎちゃうところがあった。外で狩りをしてお腹ペコペコで帰って来たエサウが、おいしい料理を作っていたヤコブに、「その作った料理食べさせろ」って言うんだけど、ヤコブは「大事な物と交換じゃなきゃヤダヨ」って言ったの。エサウは我慢できないから、「交換するよ」って言ったんだけど、そんな気はなかったんだ。どっちも駄目だね。その時の二人の悪いところは、自分の思いだけで生きたこと。神様にちゃんと聞かなかったことだね。それじゃ駄目なんだね。お祈りします。
十字架の出来事が直前に迫った時、弟子達は出世争いに汲々としていました。これは、弟子としての生き方の完全な勘違いです。この様な中、十字架が目前に迫ったある日、ゼベタイの子ヤコブとヨハネの母が主にこう頼みます。「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れると仰って下さい。」ここで注目したいのは、「王座にお着きになる時」という言葉です。彼女も息子達も、もう直ぐ主が王になると考えていました。24節に他の弟子達が立腹したと記されていますが、それは自分達が出し抜かれたと感じたから腹を立てたということで、彼らも同じ考えだったのです。
それに対し主は「あなたがたは、自分で何を願っているか、分っていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことが出来るか(受難と十字架の死に向かおうとしている私に、本当に従えるのか)」と問われ、二人は即座に「出来ます」と答えますが、ここにはずれがあります。二人は王座に就く主イエスに、一の子分として仕えたいとの野心で心を一杯にしているのですから。十字架に従う主の一の子分ではないのです。
どうして主の弟子達は、こんな野心を持ったのでしょう。主と共にいたのに、大事なことは何一つ見ていなかったし、分っていなかったのです。それが彼らの現実でした。そして私達は今、それがどうして生まれたのか考えてみなければなりません。何故なら、彼等の現実と、今の私達の現実とが、深く結びついているからです。
私達は生まれてこの方、○○が出来る、ということで称賛を浴び、出来ないということで激励や叱責を浴びるという社会に生きて来ました。○○が出来る人になるということが、生きる力や意欲を生んで来ました。それは、何のためだったのでしょう。私は小さい頃、「他人様に迷惑をかける人間になるな」と両親から言われ続けました。残念ながら、それは未だに出来ていませんが、そのためには、出来ることを増やす必要があるということは分ります。しかし今は、出来ることを増やす本当の目的は、仕える人間になるためなのではないか、と考える様になりました。主イエスの生き方は、「隣人を愛する」ことと「隣人に仕える」ということがイコールに等しいものだと感じるようになったからです。主を信じるようになって、それが分りました。
それに対し、○○が出来るという能力を、自分のために使おうとすると、称賛や報酬がクローズアップされます。そしてそれが「自分の値段・評価」になっていきます。そして多くの場合、その人間は謙遜さを失うのです。一晩に何万円もする接待を複数回受けることに何の不思議も持たない人間がいたとしたら、それはきっと「自分なそれだけの価値がある人間だ」と考えてしまったということなのでしょう。
弟子達も、自分の能力を自分のために使い、「自分の価値・評価」を上げようと躍起になっていました。だからこそヤコブとヨハネは母の力を借りようとしたのですし、出し抜かれた他の弟子達は憤慨したのです。彼らの心の中には、「自分の思い」が肥大して行きました。私達も今、自分の心の中心にあるものは何か、吟味しなければなりません。
そのような弟子達に主は言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者達が民を支配し、偉い人達が権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕となりなさい。」繰り返しになりますが、主にとっては、仕える者となる、僕となるということイコール他の人を愛する人ということなのです。それは、仕える、僕となるということの本質は、僕としてお仕えする人が、何を本当に必要としているかを、見定めて差し出すということだからです。だからこそ、十字架の道を主は歩まれ、そして命を差し出されました。私達はその主の弟子です。自らの心にある主への不従順を見つめ、悔い改め、主に従う歩みを成すことを、祈り求めて歩みたいと願います。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。弟子達は主の十字架が目前に迫っても、出世争いに汲々としていたことを知りました。この、従っているつもりでも全くそうではない勘違いが、私達の中にもあることを覚えます。その罪を見つめ、悔い改めて主に従う歩みを与えて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン