<こどもの教会のための祈り(小説教)>
今日の旧約聖書、イザヤ書の御言葉はね、「神様にお会いするには、ちゃんと準備しなきゃ駄目だよ」って言っているんだ。それが、「弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。」って言葉なんだよ。みんなもね、例えば海やプールで泳ぐ時、準備体操するでしょ。それをしないと、水に入った時、身体がビックリしちゃうんだね。そうならないように準備するのが準備体操。神様のことが分るためにも、準備がいるんだ。それはね、「神様は今、何を教えて下さるのだろう」とか、「何を分らせて下さるのだろう」って期待することなんだ。イエス様に反対したファリサイ派の人達は、自分達の考えが強すぎて、その準備が出来なかったんだよ。残念だね。お祈りします。
主イエスは救い主として私達の世界に働くために、豊かな聖霊を神から与えられた方でした。この地上で神として働き、天の父なる神の能力や力、思いを完全に示すことが使命だったからです。その様な主の許に、目が見えず口もきけない人が連れて来られます。そして癒やされて不自由を克服します。群衆は驚き、「この人はダビデの子(ダビデの子孫から与えられると信じられていた救い主)ではないだろうか」と興奮して騒ぎ始めます。しかし、この興奮は誤ったものでした。癒された男と共に喜びを分かつことなく、人々は彼を無視して自分勝手に興奮しているからです。そのような思いの人々は、やがては別の興奮に取り込まれて、「この輩を十字架につけよ!」と騒ぎ立てるようになります。
その興奮を、今申し上げたこととはまた別の角度から、苦々しく見つめていたのがファリサイ派の人々でした。彼らは群衆に冷水を浴びせるように言います。「悪霊の頭ベルゼブルの力に寄らなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。」酷い侮辱の言葉です。ファリサイ派も、目と耳が不自由であった男がそうでなくなった事実を、認めない訳にはいきません。そこで言い掛かりです。「騙されるなよ。この男はインチキだ。救い主などではない。こいつに力があるとすれば、それは悪霊の力だ。悪霊の親玉が、手下の悪霊を使った茶番さ。これはお前達を悪霊の虜にするための罠に違いない」と言う訳です。
それに対して主は、①悪霊が悪霊を追い出しているなら、結局は内輪もめだ。内輪もめは結局自分の首を絞める。悪賢い悪霊は、そんな手は使わない。②私が悪霊の力を借りているというなら、あなたたちの癒しは(ファリサイ派も同様な治療行為をしていたようです。)、何の力によるのか明らかにせよ。③私の癒しが悪霊の力だと召命出来なければ、私の癒しが神の霊(聖霊)によっていることの証明となり、それは、神の国(神の救い)が今、実現していることの証明となるのだ、と反論され、更に、家に押し入ろうとしている悪人は、先ず、その家の一番強い人間を縛り上げるだろう。悪魔や悪霊も強敵だ。その戦いは、全力でなさなければ成功しない。それに気づかず私に悪意をぶつけるあなたがたは、私の敵になるだけでなく、私の内に働く神からの霊を悪霊呼ばわりして冒瀆し、その霊を与えた神を冒瀆する者となる。神を冒瀆する者は決して赦されないのだから、神の聖霊を冒瀆する者も、決して赦されることはない、と警告されたのです。
今日の旧約聖書のイザヤ書に、「そのとき(神の救いが与えられる時)、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。」と記されていますが、これは、神の救いが与えられる時には、人間には決して出来ない奇跡的な事柄が起こるという宣言です。つまりファリサイ派も含め、極めて信仰的で超人的な力を誇る人々も、目や耳の不自由は人々を解放することは、通常出来なかったから、このように奇跡の例として表現されていると考えるべきでしょう。ですから、主イエスによって実現した奇跡的な出来事は、神の救いが与えられていることの証明として(既にイザヤ書に預言されているのですから)、襟を正して、救いの与る準備をすべきことでした。それを悪意に満ちた侮辱をぶつけるとは、何という不遜な態度だと、嘆きと警告の言葉を主は残されたのでした。
私達はファリサイ派の誤った道に進んではなりません。襟を正して、信仰の目を持って主の素晴らしいお働きを見つめ、受け入れ、賛美し、その働きと力が私達を支えていることに感謝し、ご一緒に、主に従う歩みを深めていきたいと願うものです。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。主イエスは救い主として、あなたの豊かな聖霊を与えられた救い主です。しかしファリサイ派は自分達の思いに固執し、その働きを否定しり続け、主を否定し拒否しました。そこに深い罪があります。主の内に働く聖霊を否定することは、その送り手であるあなたを否定することに繋がったからです。救い主としての主を見つめ、そのとうとう働きを受け止め、主に従う私達となることが出来る様導いて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン