<こどもの教会のための祈り(小説教)>
今日の旧約聖書はね、ダビデっていう少年が、サムエルっていう人と出会って、王様に選ばれるお話なんだ。ユダヤの国に、新しい王様が必要だっていうことになって、神様の命令でサムエルが捜しに行くんだよ。その前にサウルって人が王様になるんだけど、交代しなきゃならなくなったからね。神様に言われて、サムエルはベツレヘムに出掛けた。エッサイの息子達の中から、新しい王様を選びなさいって言われて行くんだけど、どの子も神様は「この子じゃないよ」って仰る。それで「もう誰もいないんですか?」ってサムエルが聞くと、「ダビデって子がいますけど、まだ小さいから羊の番をしています」ってエッサイは言うんだ。「じゃあ、連れて来て下さい」ってサムエルが頼んで会ってみたら、「この子こそ新しい王だ」って神様はサムエルに言ったんだよ。神様は、誰の心が神様に向いているか、知っておられたからね。そこでダビデが選ばれて、その時から神様の霊をたくさん戴いて、ダビデには前よりもっと強く、神様のお心が分るようになったんだ。神様の霊のことを聖霊っていうんだけど、それは神様が選んだ人が、神様からの大切な役目を果たすための力なんだ。だから私達も、「神様、聖霊を私達に下さい。神様のお心を良く分らせて下さい」ってお祈りすることが大事だね。お祈りしましょう。
まとめ:主が洗礼を受けられた時、おびただしい聖霊が主に降り注いだ。それは神が、人間を救うための、ありったけの力を主に与えたことを意味する。共に生きる神として、今なお私達の救いのために働かれる主が与えられたことを感謝して生きよう。
私たちの主よ、ただ言葉によるのではなく、あなたの聖霊の力によって、私達に福音を示して下さい。
(Our Lord, show us the Gospel not only by words, but also the power of your Holy Spirit.)
主のみ名によって祈ります。アーメン。
<説教>
主イエスが洗礼者ヨハネから、罪の悔い改めの洗礼を受けたのは、真の神であり、真の人である主イエスが、罪人である私達一人一人の友として、仲間として生き抜く決意のお示しになるためでした。それは、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」という15節の主の言葉にも示されています。共に神に仕える者として、神に命じられた正しい生き方をしよう、と主はヨハネに呼び掛けられたのでした。
そして水から上がられると、「天がイエスに向かって開いた」と記されています。山などに出掛けた時、雲の切れ目から、太陽の光が射し込む美しい光景を見ることがあります。マタイは、そんなイメージで記しているのだと思われますが、ここは、主イエスのためだけに、主に向かって、重要なことを行い、伝えるために、神のみ心が示されたということを表すのです。
そして、主は御自分の上に、神の霊が鳩のように降って来るのをご覧になります。皆さんの中には、小鳩のような小さい鳥でも、身近で羽をいっぱいに広げると、かなりの大きさになることを知っておられる方も多いでしょう。「神の霊が鳩のように」とは、少量のものがひらひらと、というイメージではなく、かなりの量のものがどさっと降って来た、ということなのです。ある神学者は、「これは神が聖霊を、ある意図をもって、大量に与えられたことを意味する」と解釈しています。この「ある意図」について、彼は、「私達人間全てを救うために必要な神の力が、ありったけ、聖霊という形で与えられたのだ」と説明しています。だからこそ、次の声が天から響くのです。それは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉です。この者こそ、最愛の息子だ、私と一体の者だ。わたしの愛と慈しみと、あなたがたを救う力の全てを持つ者だ。私の心に適った生き方をし、あなたがたをその生き方へと導き、育てる救い主として、私があなた方の世界に与えた貴い存在だ。この言葉は、その様な意味が込められているのだと思います。言うならば、主イエスの洗礼は、主が、私たち罪人の友として生きることを、神が宣言するためになされたものであり、同時に、友としてだけではなく、神として、救い主として私達を支え、生かし、導く使命を持つ方として遣わされたということを、神が私達に明らかするために、なされたものと言えるでしょう。
その様な主が、永遠の救い主として、私達の救いのために、今なお生きて働いておられるのです。その主の支えと導きの中で、私達はいつも目標と希望を与えられ、主と共に歩むことが出来ます。どんなに辛い困難が押し寄せても、先の見えない不安の中に置かれても、私達は、主が下さる目標と希望の中で、常に立ち上がることが出来るのです。それを主は、友として、救い主として、神として、その歩みを支えて下さるのです。祈りましょう。